いる。
 もう小山一重を隔てた「左俣の谷」との、出合いが近くなったので、水音は、ごうごうと、すさまじく谷の空気を震動させ、白い姿をした大波小波は、川楊の枝をこづき廻して、さんざめき、そそり立つ切り崖の迫って来る暗い谷底で、手を叩いたり、足踏みをしたり、石に抱きついたり、梢に飛びついたりして、振り返り、振りかえり、濶くなった川幅を、押し合って行く。
 その谷の、高原川へと、出合いに近い右の岸に、今夜泊まる蒲田の温泉宿があるのである。

    穂高の御幣岳(新登路より初登山の記)

      一

 信州神河内(上高地)の温泉から、御幣岳(明神岳または南穂高岳)、奥穂高岳、涸沢《からさわ》岳(北穂高岳)、東穂高岳などの穂高群峰を、尾根伝いに走って、小槍ヶ岳(新称)、槍の大喰岳を登り、槍ヶ岳から蒲田谷へ下りて、硫烟のさまよう焼岳を雨もよいの中に越え、また神河内へと戻って来た私は、蒲田谷の乱石を渉《わた》るとき、足首を痛め、弱りこんでいたが、穂高岳の黒く縅《おど》した岩壁が、鶏冠《とさか》のような輪廓を、天半に投げかけ、正面を切って、谷を威圧しているのを、温泉宿の二階から仰ぎ見ていると、こ
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