ある、左俣谷の上に、笠ヶ岳の長い尾根が高く列《つら》なっているのと向い合って、右俣谷の上を截ち切るように、高く繞《め》ぐっているのは、槍ヶ岳から穂高岳、岳川岳へとかけた岩石の大屏風で、両方とも肩を摩《す》れ摩《す》れにして、大きな岩の塊を虚空に投げ上げている、高さを競って嫉刃《ねたば》でも合せているように、岩が鋭い歯を剥き出して、水光りに光っている。
 この両山脈の間の薬研《やげん》の底のような溝が、私どもの行く谷である、長い青草が巨大な手で、掻き分けられたように左右に靡いているのが、おのずといい径になっている、嘉門次は杖の先でちょっと叩いて見せて「熊が行っただあ」と教えてくれる、したがその草分路は、大先達が通行した跡のように荒々しくも威厳のあるものに見られた、草原から河原となっても、水はあまりなかったが、大きな一枚石で、下りられそうもない、崖へ来ると、雪解の水が、ちょろちょろ流れる、その上へ翳《かざ》した白樺の細い幹が、菅糸を巻いたような、白い皮を※[#「糸+施のつくり」、第3水準1−90−1]《ほ》ぐらかして、赭《あか》ッちゃけた肌が雨止みのうす日に光っている、向うを見ると穂高岳の
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