て去年も登った槍ヶ岳を、しみじみと見上げたが、この何万年も不眠症でいる、原始の巨人《ジャイアント》は、鋼鉄のような固い頭を振り立てて、きょうもまた霧の垂幕を背景《バック》にして、無言のまま日本の、陸地の最も高い凸点にぬーっと立っている、全能の大部分を傾けて、建設したのではないかとまで、壮大にして不滅に近いモニュメントを、私は覚えず敬虔の念を以て礼拝せずにはいられなかった。
 槍ヶ岳のすぐそば――といっても、蒲田谷へ向い気味で、やや下った石コロ路の中で、露営を張ることになった、雪はすぐうしろにあるので、煮炊《にたき》に不自由はない、一枚の大岩を屏風とも、棟梁とも頼んで、そこへ油紙の天幕《テント》を張った、夕飯の仕度にかかっているうち、嘉門次もエッサラとあがって来た、去年とは違った小犬を伴につれている、今夜の用意に、来る路の、谷で剥《む》いて置いたという白樺の皮を出して、急拵えの石竈《いしかまど》の下を、燃やし始めた。
 霧がすっきりと霽《は》れて、前には笠ヶ岳の大尾根が、赭っちゃけた紅殻《べにがら》色の膚をあらわし、小笠から大笠へと兀々とした瘤《こぶ》が、その肩へ隆起している、遠くの空に
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