壁は、世に見らるる限りの、壮大なる垂直線をして、梓川と蒲田谷の中間にズリ落ち、重たい水蒸気が溜息を吐《つ》くように、谷の底から漂って来て、団々の雲となって、ふうわりと草むらを転げてゆく、雷鳥がちょいと首を出す、人夫が石を投げたので、また首を引っ込めてしまった。
 この岩壁の脈から、左の方の低い尾根へと取れば、槍ヶ岳へ行かれるのであるが、私は穂高の峰々を片ッ端から踏んで見たくなったので、私が御幣岳(明神岳または南穂高岳)と呼ぶ三本槍状の穂高を、先へ駈けぬけるつもりで、人夫だけを別れ道に待たせて置いて、嘉代吉と二人で偃松の間をむやみに走った。
 眼の下に遠く梓川は、S字状に蜿《う》ねっている、私の足音につれて、石がコロコロと崩れ落ちる、壁一重を隔てて、ざわざわがらがらと、滝のたぎり落ちるような音がする、嘉代吉を振りかえって聞くと、石が崩れているのだという、かの戦慄すべく、恐怖すべき、残忍なる石と石の挌闘《かくとう》と磨滅が始まったのである、私は絶壁を横切りながら、鋭い切れ物で、頬をペタペタ叩《たた》かれるような気持をしながらも、ここまで来ると、岩石の美《うる》わしき衰頽と壊滅は、古城の廃趾
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