ごくもあるが、この両方の大岳には、五、六月頃になると、山桜や躑躅《つつじ》が、一度に咲いて紅白|綯《な》い交《ま》ぜの幔幕《まんまく》を、山の峡間に張るそうである、それよりも美しいのは、九月の末から十月の半ごろにかけてである、秋とはいえ、霧は殆んどなく、その頃になると、霞沢岳は、裾がまだ緑であるのに、中腹はモミジで紅く燃えるようになり、頭は兀々《こつこつ》たる花崗岩で、厳粛なる大気の中に、白く晒《さら》されている、このように紅緑白の三色をカッキリと染めるのが実に美しいと、温泉宿の主人は、さも惚《ほ》れ惚《ぼ》れとするように話をしてくれる、私は親友水彩画家、大下藤次郎氏が、ある年七月の初めに、ここへ写生に来て「秋になったら、是非も一度、往って見たい」と幾度も繰りかえしていたことを憶い出した――その大下君は、年の秋を待たずに、この神河内《かみこうち》の自然に忠実なるスケッチ数十枚を残して、死なれてしまった。
 晴れた日ばかりではない、いま明るいかとおもうと、雲とも霧ともつかぬ水蒸気の一団が、低くこの峡谷に下りる、はじめは山百合の花ほどの大きさで、峡間の方々から咲く、それが見る見るうちに、も
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