に、右に左に押し倒されて、その凹《くぼ》んだ痕が、峰の方へ、斜に切って、するすると登って行く。
 もう前穂高の三角点のある岩尾根は、醜恠《しゅうかい》に赭《あか》っちゃけて、ササラのように擦り減らされた薄っぺらの岩角を、天に投げかけている、細い石渓の窪地や、薊《あざみ》がところ嫌わずチクチクやる石原の中を、押し分けてというより、押し登って行くと、鼻っ先の風露草とすれすれに、乗鞍岳はもう雲の火焔に包まれている、眼前の岩壁には、白樺の細木が行列して、むくむく進行する草原の青波を、喰《く》い留《と》めながら、崖の縁をかがっている、その白樺を押し分けて、庇《ひさし》のように突き出た岩壁に縋《すが》る、櫓《やぐら》のように大きな一枚岩で、浦島ツツジが、べったりと、石の地《じ》を見せずに、粘《ね》ばりついているので、手障《てざわ》りがいかにも柔らかで、暖かい蒲団の中へ手をさしこんだように快い。
 小石の磧《かわら》となって、高根黄菫《たかねきすみれ》がところどころに咲いている、偃松がたった一株、峰から押し流されたように、手を突いて這っている、その皺《しわ》だらけの絶壁を這い上ろうとしたとき、私たちの背中を目がけて、いきなり[#「いきなり」に傍点]大砲でも放したような、大音響が、音波短かく、平掌《ひらて》でビシッと谷々を引っぱたいた、頭脳がキーンと鋭く、澄んで鳴った、手をかけた岩壁まで、ぶるぶると震動したかとおもわれて、振りかえると、兜形《かぶとがた》をした焼岳の頭から、白い黄な臭そうな硫烟が、紫陽花《あじさい》のような渦を巻いて、のろし[#「のろし」に傍点]となって天に突っ立っている。
「また灰が降ったこったろう」「きのうの今ごろ、あすこを通ったが、今日だったら、どんな目に遇わされたことやら」私と嘉門次の間にこんな話が交わされた、二人は岩屏風に縫いつけられたようになって、焼岳を見詰めた、焼岳のうしろには、遠く加賀の白山山脈が、桔梗色の濃い線を引いている、眼を下へうつすと、神河内から白骨《しらほね》へと流れて行く大川筋が、緑の森林の間を見え、隠れになって、のたくって行く、もう前穂高の三角測量標は、遥か眼の下に捨《う》っちゃられて、小さくなっている。
 やっと山稜の一角に達した、この山稜は御幣岳(南穂高岳)の頂上へと、繋がって行く、しかも鋭利なる剃刀《かみそり》の刃のように、薄く光って、空へ空へと躍り上って行く。
 ワゼミヤガワ(上宮川)谷も瞰下《みおろ》される、蝶ヶ岳も眼下に低くなって、霞沢岳は、雲で截ち切られてしまっている、この蝶ヶ岳、霞沢岳、焼岳の直下を、蛇のように小さくのたくっている梓川の本谷まで、私の立ってる山稜からは、逆落《さかおと》しに、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に、遮るものなく見徹《みとお》されるので、私は髪の毛がよだって、岩壁を厚く縫っている偃松を、命の綱にしっかりと捉《つか》まえて見ていた、そうして立ちすくむ足を踏み占《し》めて、空を仰ぐと、頭上には隆々たる大岩壁が、甲鉄のように、凝固した波を空に抛《な》げ上げ、それ自らの重力に堪えがたいように、尖端が傾斜して、頽《くず》れ落ちた大岩石を谷底までぶちまけている。
 御幣岳の肩へ、ミヤマナナカマドや、偃松を捉まえて、やっと這い上った、常念岳や大天井岳が、東の空に見える、谷底から、霧は噴梱のように、ボツボツと※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]《あが》って来て、穂高岳の無数の絶壁は、咽《むせ》んで仆《たお》れるように、肩から肩へと倚《よ》りかかって、私たちを圧倒しようとしている、少量の残雪が、日陰の偃松の間に、白く塊まっている、乱石の縦横なる大岩角を、跛足引き引き伝わって、時には岩の大穴に落ちそこなったが、どうやら絶頂へ、足を載せたときは、ホッと安心して、サイダーを抜いて祝った、焼岩魚《やきいわな》を肴にしてムスビを噛じった、ふと包んだ新聞紙を見ると、二号活字で、日英同盟、援務的契約などいう文字が読まれた、人と人がどうした、国と国がどうした、私たちにさしあたっての問題は、人と獣と石の三位であった。
 ここから見ると、三本槍状に聳えた御幣岳は、一と塊に鋳固《いかた》められたように黒くなって、その裏を奥穂高岳の尾根が、肩幅|濶《ひろ》くぶっ違いに走っている、三本槍の間には、岩壁の切れ込みが深くて、ジムカデだの、イワヒゲだのという、小植物が這っているばかり、大空に浮きつ沈みつして、遠く岳川岳まで、岩石の大集塊が、延びあがり、谷一つを隔てて笠ヶ岳が頭を出して来た。
 私たちは三本槍を、片ッ端から、登っては降りして、数日前に来たことのある御幣岳の一角と行き合った、嘉門次すら、この三本槍を縦走したのは、この年になるまで、きょうが始めてだと言っていた、岩石の連嶺は、ここで
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