げたようであるが、水が絶えず流れているので、透き徹っている、二の池へ来ると、岩には白花の石楠花が、もう咲き散ったが、落葉松のひょろりと痩《や》せた喬木が、水に翠《みどり》の影を映して、沈まりかえっている、一の池と二の池の境には、赤いツツジが多いということであるが、今は咲いていなかった、深く生い茂った熊笹を分けて岨道《そばみち》を屈曲して行くと、二の池の水が、一段低い三の池へ、森の空気を震動させて落ちて行く、三の池の水も、清く澄みわたって、髪の毛一筋、見落しはしまいとおもわれるほど、底まで見え透いて、青豆を挽《ひ》いたような藍※[#「靜のへん+定」、第4水準2−91−94]《らんてん》の水が、落葉松の樹の間に、とろりと光って、水草や青い藻は、岸にすがって、すいすいと梳《くしけず》っている、どこにも地平線のない空は、森の梢にも、山の輪廓にも、天の一部を見せて、コバルト色に冴えわたり、若い女の呼吸《いき》のような柔かい霧が、兎の毛のように、ふうわりと白く朝空のおもてに、散らばっている。
 小さな水なし谷、宮川のクボを、左右に横切って、石ばかりの涸沢《からさわ》を行くと、蒼黒い針葉樹に交って、白樺の葉が、軟らかに絵日傘に当るような、黄色い光を受けて、ただ四月頃の初々しい春の感じが、森の空気にただよっている、その若葉がくれに、前穂高の厳《い》かつい岩壁を仰いで、沢を登ると、残雪に近くなるかして、渓水がちょろちょろ糸のように乱れはじめ、大岩の截《き》っ立てたところから、滝となって落ちている、もう沢を行かれないので、草を踏み分けて、左岸の森林の中に迷い込む、木はようやく細く痩せて、石楠花が多いが、その白花はもうないかわりに、マイヅル草の白い小花が、米粒でも溢《こぼ》したように、暗く腐蝕した落葉の路に、視神経をチクリとさせる、木の根には蘚苔《こけ》が青々として、水がジクジクと土に沁みこみ、山葵がにょっきり生えている、嘉門次はこの山葵を採りに入って、登り路を発見したのであると言っている、樹の間がくれに焼岳は、朝の空にどっしりと、鈍円錐形を据えて、褪《あ》せた桔梗色の霞沢岳は、去年ながらの枯木の乱れた間から、白雲母花崗岩の白砂を、雪のように戴いて、分岐した峰頭が碧空の底を撫でている。
 踏み心地のよい針葉樹の、暗い路を登るほどに、いつしか栂の純林となって、この鈍林を放れ切るまで、松葉つなぎの腐蝕土はつや[#「つや」に傍点]を消したような光線で、うす暗くぼかされている。
 林を全く離れて、正北を指さし、花崗《みかげ》の裸岩にかじりついたときには、いよいよ日本北アルプス中の絶大なる「岩石の王さま」へ人間の呼吸《いき》がかかるのだと思った、この岩壁は十町ほども、するすると延び上って、駭《おど》ろくばかり峻急なる傾斜は、天半を断絶して、上なる一端を青空の中へ繋ぎ、下なる一半を、深谷の底へと没入させている、岩石の散乱した間に、飛散した種子から生えたらしい、落葉松の稚樹《わかぎ》が、二、三本よろよろと、足許を覚束なげに立っている、顧れば焼岳の頂は凹字に刳《えぐ》られて、黄色い噴煙が三筋、蒲田谷の方へ吹き靡いている、私の立っているところは、もう向う側の霞沢岳の頂上に、手が達《とど》きそうになって、岳の右の肩に、三角測量標のあるのが、分明《ぶんめい》に見える、眼の下に梓川の水は、藍瓶《あいびん》を傾むけたような大空の下に、錆ついた鉱物でも見るような緑※[#「靜のへん+定」、第4水準2−91−94]《りょくてん》色になって、薄っぺらに延びている、それは流れているとは見えないのである、暫らく休んでいると、冷たい谷風が、下から吹きあげて、森は魂が入ったように、さやさやと靡いて、蒼玄《あおぐろ》い鬣《たてがみ》が這い上って来る、焼岳の左の肩を超えて、乗鞍岳の一角が見え初《そ》めた。

      三

 赤裸で残忍な形相をした石の路を、殆んど登りつめたところから、左へ切れこみ、前穂高岳の三角測量標を仰ぎながら、草原に入ると、傾斜はいよいよ峻急になって、岩菅の花が、火のように赤く、風露草のうす紫や、猪独活《ししうど》の白い花などが、その間に交って、ドス黒い岩壁へ、更紗を布いたように綺麗であるが、角度が急でややともすると、腹這いになる、美しい花が私の面を撲《う》って、甘酸っぱい匂いが、冴えた空に放散する、嶮しい岩角で、一足踏み辷《すべ》らすと、大変なことになると思いながらも、花の匂いが官能を刺戟して、うっとりと気が遠くなる、空は濃碧に澄んで、塵《ちり》っ葉《ぱ》一つの陰翳もなく、虻《あぶ》が耳もとで、ブンブン唸る。
 嘉門次はふと草原を切り靡けたような、路のあるのを見出して、太い短かい杖で、猪独活をあしらいながら、「熊が通った路だあ」と言った、草はよほどの重量を、載せたよう
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