こで草鞋《わらじ》を脱ぎ切ってしまうのは、残念で堪《た》まらない、きのうまで案内に連れて歩いた嘉門次爺が「やれお疲れなさんしつろう」と障子の外から声をかけて、入って来た。
 爺はことし六十五であるが、穂高山の主《ぬし》と言われるくらいな山男で、何でも二十五、六歳のころ、旧の師走であったが、三人連れで、この温泉の上まで、猟にやって来たとき、雪崩《ゆきなだ》れに押し流されて、一里も下まで落っこち、左の脚を折ったということで、もし自分一人であったら、到底命は助からなかったろうと、物語った。今でも気をつけて視ると、すこし跛足を引いているが、利《き》かぬ気の父《とつ》ッさんである、この嘉門次が一年中の半分は、寝泊りしているところは、温泉宿から半里ばかり、宮川の小舎といって、穂高岳の麓にある、宮川の池の畔《ほとり》にしつらえた、間口二間奥行二間半ほどの、木造小舎である、この小舎の後ろから、穂高岳は、水の綺麗に澄んでいる池を隔て、鉄糞《かなくそ》で固めたように、ドス黒く兀々《ごつごつ》として、穹窿形《きゅうりゅうけい》の天井を、海面から約一〇二四〇尺(三一〇三|米突《メートル》)の高さまで、抜き出している。
 穂高岳をめぐっている空気は、いつも清澄で、夕《ゆうべ》の空の色などは、美しく濃く、美しく鮮やかで、プルシアンブルーが、谷一面の天を染めている、その下に、ずらりと行列して、空の光が雨のようにふりそそぐに任せている谷の森林は、樅《もみ》、栂《つが》、白檜《しらべ》、唐櫓《とうひ》、黒檜《くろべ》、落葉松《からまつ》などで、稀に椹《さわら》や米栂《こめつが》を交え、白樺や、山榛《やまはん》の木や、わけては楊《やなぎ》の淡々しく柔らかい、緑の葉が、裏を銀地に白く、ひらひらと谷風にそよがして、七月の緑とは思われぬ水々しさをしているが、一度穂高岳の半腹に眼をうつすと、鋭利な切れ物で、青竹を斜《はす》に削《そ》いだような欠刻が、空気に剥《む》き出されて、重苦しい暗褐色の岩壁が、蝙蝠《こうもり》の大翼をひろげて、人の目鼻をふさぐように、谷の森にも、川にも、河原にも、嵩《かさ》になってのしかかって見える。
「あんなところが登れようかね」と、岩壁の白い薙《なぎ》を指しながら、話の緒《いとぐち》を引き出したところが、あすこは嘉門次が、つい去年、山葵《わさび》取りに入りこんで、始めて登ったところで、未だ誰もその外に、入ったものはないと言うので、私はふと聞き耳を立てた。嘉門次は穂高山の主だから、別物として、劫初《ごうしょ》以来人類の脚が、未だ触れたこともない岩石と、人間の呼吸が、まだ通ったことのない空気とに、突き入るということは、その原始的なところだけでも、人間の芸術的性情を、そそのかすものではなかろうか、私は急に習慣の力から脱け出して、栗鼠《りす》が大木の幹に、何の躊躇もなく駈けあがるような、身の軽さをおぼえた。
 あの黒曜石のように、黒く光っている穂高山! あのやかましやのトルストイの顔のような、深刻な皺《しわ》を、何十万年となく縮ませている穂高山! 何物をも遠くへ突き放すように、深谷の中で、いつでも、独《ひと》り坊《ぼ》ッちで、苦り切っている穂高山!
 私は是非|往《ゆ》こうと決心した、その夜は森の匂いよりも、川瀬のたぎる水音よりも、私の官能は、あの大岩壁の幾重にも乱れ合う拒絶の線の、美しさと怖ろしさを按排《あんばい》した中へ、無理やりに潜《もぐ》り込もうとしては叩き落され、這い込んではずり下《さが》って、蜘蛛《くも》の糸のように虚空に閃めく寸線にも、触れたが最後、しっかりと捉《つか》まって、放すまいとしていた。

      二

 温泉宿から梓川に沿《つ》いて、河童橋を渡り、徳本《とくごう》の小舎まで来た、飛騨から牛を牽いて、信州へ山越しにゆく牧場稼ぎの人たちが、行き暮れて泊まるところだ。小舎の前の森を突き抜けて、梓川の本谷が屈曲して、また浅緑の森の下蔭へとはいって行く、浅く美しい水の底から、小石の浮紋《うきもん》が、川のおもてに綾を織っている、川は幾筋にも分れて、川鴫《かわしぎ》という鳥が、一、二羽水の面を掠《かす》めて飛んでいる、川をざぶざぶ入って行くので、足の指先から脳天まで、血が失せるかとおもわれるほど、冷いやりとする、向う岸に着いて、根曲り竹を掻きわけ、宮川の池にかけた丸木橋を、危《あぶ》なっかしく渡って、嘉門次の小舎へ来た、小舎のわきに、小さな木祠が祀《まつ》ってあって、扉を開けて見ると、穂高神社奉遷座云々と、禿《ち》び筆で書いた木札などが、散乱している。
 唐檜や落葉松が、しんしんと立てこんでいる中を、木祠のうしろへ出ると、そこが宮川の池である、一の池という一番大きいのが、穂高へ寄った方の岸は、青みどろの藻で、翡翠《かわせみ》の羽をひろ
前へ 次へ
全20ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング