よもぎ》が沙《すな》の中に埋まって生えている、大さな石から石には、漂木が夾《はさ》まって、頭を支え、足を延ばし、自然の丸木橋になっているところを、私たちは上ったり下りたりした、水は膝頭までの深さなら、渉ることにしている、急流になると、嘉門次に手を取ってもらって、あやしい足取りをして渉る、そういうときに、犬は石から石を伝わり、川面を眺めて、取り残されたのを哀しむように吠える。
 幅が濶くなると谷川が二つにも三つにも分れて、大きな石が、おのずと洲の上に堤防を築いている、葱《ねぎ》のような浅青色の若葉をした川楊が、疎らに立っている、石に咽《むせ》ぶ水烟が、パッと立って、梢から落ちる雨垂と一ツになって、川砂の上を転がっている、川楊の蔭に入っている分流は、うす蒼くなって、青い藻が細やかな線と紋を水面に織り出しながら、やんわりと人里を流れる小川のように、静かに澄んでいる。空は藍鼠色に濁って、雨雲が真ッ黒な岩壁に、のしかかっている。
 岳川岳の方から「白出し沢」という白い砂石が押し流して来ている、両方の川縁の浅そうなところを選って、右左とS字状に縫って、徒渉をする、いけないところは、森の中へ入る、ゴゼンタチバナの白い花や、日を見ることを好まない羊歯《しだ》類が、多くのさばって、もう血色がなくなったといったような、白い葉の楓が、雨に洗われて、美しい蝋石《ろうせき》色をしている。
 崖が蹙《せば》まったところは、嘉門次と人夫とで、仆《たお》れた木を梯子《はしご》代りに崖にさしかけ、うるさい小枝を鉈《なた》で切っ払って、その瘤を足溜《あしだ》まりに、一人ずつ登る、重い荷をしょった人夫の番になると、丸木の梯は、弓のようにしなって、両足を互い違いに、物を狙うように俯《かが》み身になって、フラフラしていたが、先に登りついた嘉門次は、崖の上から手を借して、片手で樅の幹を抱えながら、力足を踏ん張って引きあげる、私も登ったが取り残された犬は、丸太を爪で、がりがり引っ掻いていたが、駄目と見極めをつけて、あちこち川砂を蹴立てて駈けていた、崖は截っ立って、取りつくところもないので、悲しそうにきゃん、きゃん、啼いている、森の中へ入って行く私どものうしろから、水分の交った空気を伝わって、すがりつくように吠えるのが、どこまでも耳について聞える、嘉門次は口笛を吹いて、森の中に没しながら、自分たちの行く路を合図して、森々たる喬木の蔭を潜る、すると小さな路がついていて、自然と崖を越して、河原へ下りる、鉱山発掘のあとの洞穴があって、その近傍だけは、木材を截って櫓井戸《やぐらいど》を組み合せ、渋色をした鉱気水が、底によどんでいる、暫らく休んで、鯊《はぜ》のつくだに[#「つくだに」に傍点]で、冷たい結飯《むすび》を喰べたが、折角あったと思った路は、ここで消えてしまっている。「犬は大丈夫かい」「エエエエ直《じ》っきに来ますわ」「どうしてあの崖を駈け登れるだろう」慕門次は笑っている、ひょいと見ると、鼻をフン、フン、やりながら、もういつの間にか、傍へやって来て、嬉しそうに尾を掉《ふ》っている。つくだに飯を喰わせてやる。
 また洲を伝わって行くと、山林局の立ち腐れになった小舎にぶつかった、川面が明るくなるかとおもうと、私雨《しぐれ》がそぼそぼと降り出して、たとえば狭い室のうす明りに湯気が立って、壁にぼーッと痣《あざ》が出来るように、山々の方々に立つ霧は、白い黴《かび》のように、森や岩壁にベタベタしている、そうして水分を含んだ日の光に揺れて、年久しく腐った諸《もろも》ろの生物の魂のように、ふわふわしてさまよっている。
 もう小山一重を隔てた「左俣の谷」との、出合いが近くなったので、水音は、ごうごうと、すさまじく谷の空気を震動させ、白い姿をした大波小波は、川楊の枝をこづき廻して、さんざめき、そそり立つ切り崖の迫って来る暗い谷底で、手を叩いたり、足踏みをしたり、石に抱きついたり、梢に飛びついたりして、振り返り、振りかえり、濶くなった川幅を、押し合って行く。
 その谷の、高原川へと、出合いに近い右の岸に、今夜泊まる蒲田の温泉宿があるのである。

    穂高の御幣岳(新登路より初登山の記)

      一

 信州神河内(上高地)の温泉から、御幣岳(明神岳または南穂高岳)、奥穂高岳、涸沢《からさわ》岳(北穂高岳)、東穂高岳などの穂高群峰を、尾根伝いに走って、小槍ヶ岳(新称)、槍の大喰岳を登り、槍ヶ岳から蒲田谷へ下りて、硫烟のさまよう焼岳を雨もよいの中に越え、また神河内へと戻って来た私は、蒲田谷の乱石を渉《わた》るとき、足首を痛め、弱りこんでいたが、穂高岳の黒く縅《おど》した岩壁が、鶏冠《とさか》のような輪廓を、天半に投げかけ、正面を切って、谷を威圧しているのを、温泉宿の二階から仰ぎ見ていると、こ
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