ある、左俣谷の上に、笠ヶ岳の長い尾根が高く列《つら》なっているのと向い合って、右俣谷の上を截ち切るように、高く繞《め》ぐっているのは、槍ヶ岳から穂高岳、岳川岳へとかけた岩石の大屏風で、両方とも肩を摩《す》れ摩《す》れにして、大きな岩の塊を虚空に投げ上げている、高さを競って嫉刃《ねたば》でも合せているように、岩が鋭い歯を剥き出して、水光りに光っている。
 この両山脈の間の薬研《やげん》の底のような溝が、私どもの行く谷である、長い青草が巨大な手で、掻き分けられたように左右に靡いているのが、おのずといい径になっている、嘉門次は杖の先でちょっと叩いて見せて「熊が行っただあ」と教えてくれる、したがその草分路は、大先達が通行した跡のように荒々しくも威厳のあるものに見られた、草原から河原となっても、水はあまりなかったが、大きな一枚石で、下りられそうもない、崖へ来ると、雪解の水が、ちょろちょろ流れる、その上へ翳《かざ》した白樺の細い幹が、菅糸を巻いたような、白い皮を※[#「糸+施のつくり」、第3水準1−90−1]《ほ》ぐらかして、赭《あか》ッちゃけた肌が雨止みのうす日に光っている、向うを見ると穂高岳の肩が、白く剥《は》げて、この谷へ一直線にくずれ落ちている、白出しの尾根はあれずらあと、嘉門次は、雲の絶え間を仰向いて言ったが、私は、ことしもしくじった[#「しくじった」に傍点]笠ヶ岳の残雪に、執念を残さないわけにはゆかなかった。
 独活《うど》が多くなって、白い小さい花が、傘のように咲いている、変に人慣れないような、青臭い匂いが、鼻をそそる、谷から谷を綾取るようにして、鶯が鳴き出す、未だ溶けそうもない雪の塊まりが、鮮やかな白さを失って、灰に化性《けしょう》したようになって、谷の隈に捨てられている、昨日通った槍ヶ岳の山稜から、穂高岳へとかけて大きく彎曲した、雁木《がんぎ》のようなギザギザの切れ込みまでが、距離の加減で、悠《ゆ》ったりと落ちつきはらって、南の空を、のたくっている、それでも尖りに尖った山稜の鋭角からは、古い大伽藍の屋根の瓦が、一枚一枚|剥《め》くられては、落ちて砕けて、長い廻廊《ギャラリイ》に足踏みもならぬほど、堆《うずた》かく盛り上ったように、谷の中は、破片岩が一杯で、おのずと甃石《たたみいし》になっている、鱗《うろこ》がくっついているのかとおもう、赤くぬらくらしたのもあれば、黄な碼碯《めのう》色のものや、陶磁器の破片のように白く硬く光っているのもある、青い円石の中に、一筋白く岩脈《ダイク》の入ったのが、縞芒《しますすき》でも見るようで美しい、この高らかな大なる山稜を見ていると、何十万年となく、孤独の高い座を守っている聖堂でも見るように思われて、私は偶像崇拝者の気になり、何だか自分でひとり決めに、日本人の総代になったつもりで、ちょっと目礼をしてみた、実際石と石の間に割り込んだ我々三人は、石の仲間入をしたので、誰も石よりも、権威のあるものだと、信ずるわけにはゆかなかった。
 うす日で安心していた間もなく、雨がザッとふり注いで来た、谷の中で雨に降り出されるほど、滅入った気になることはない、ゆうべ槍ヶ岳の峰頭から見た、北の空の燃え抜けるように美しい夕日も、今になって見ると、神棚の火のように影がうすいものであった。私は頭の中まで、ぼんやりと膜が下りたようになった、眼鏡は曇って、一寸先を見透すのさえ大なる努力を要する、外套のおもてには、雨が糸筋を引いていい加減に結び玉を拵えては、急にポロポロと転び落ちる、それが人間よりは、生命のある原子のようにも思える、両側の青木の中から、霧はもやもやと舞い立って、谷が一杯に白くなって、鉛で圧しつけられるようだ。
 始めは上流とは思われぬほどに、川幅が濶《ひろ》かったが、谷が次第に蹙《せば》まって、水嵩《みずかさ》が多くなったので、左の岸の森へ入った、山桜がたった一本、交って、小さい花が白く咲いているのが、先刻の白花の石楠花とふたつ、この谷で忘られないものになった、足許には矢車草の濶い葉や、車百合の赤い花があったようだが、眼もくれずに踏み蹂《にじ》って行く、森がつきて河原に出ると、岳川岳の大きな岩石が、杓子《しゃくし》を並べたように、霧の中にうすぼんやりと炙《あぶ》り出されて、大きくひろがったり、小さく縮んだりしている。
 イワス(岩壁の截《き》り立っているところ)にぶつかると、水が深くて急であるから、森の中へ潜り込む、そうしてまた森から吐き出されては、谷の中へと飛び込む。犬は森の中を潜るたびに、ビッショリになって、川縁へ下り立つたびに、プルプルと総身を震わせては、水を切っている。
 槍ヶ岳から落ちるという槍沢は、崖になって、雪が綿のように白い、その下から水がすさまじい幅濶の滝になって、落ちて来る、河原には蓬《
前へ 次へ
全20ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング