、藍玉のように空間に繋《つな》がっている、私は単なる詠嘆が、人生に何するものぞと思っている、また岩石の集合体が、よし三万尺四万尺と繋がって虚空に跳りあがったところが、それが人間に何の交渉があるかと顧みても見た、しかしながら、私という見すぼらしい生活をしている人間に比べて、彼らは何というブリリアントな、王侯貴族にもひとしい、豪奢《ごうしゃ》でそして超高な、生活をしているのであろうか、私は寂しい、私の生活は冷たい、私に比べれば、岩石は何という美わしい色彩と、懐つかしい情緒をもっているのであろう、私は胸を突き上げられるようになって、岩に抱きついて、やる瀬のないような思いに、ジッとなって考えこんだ。
岩石の長い軌道は、雲から雲に出没して、虚空を泳いでいる、そうして日本本州の最高凸点なる、飛騨と信濃の境になっている、信濃方面の斜めな草原に下りたときは、ほっと一と息|吐《つ》けたが、飛騨境の、稜々として刃のような岩壁を、身を平ッたくして、蝙蝠《こうもり》のように吸いついて渡ったときには、冷たい風が、臓腑まで喰い入って来るように思われた、蒲田の谷を、おそろしく深く、底へ引き落されるように見入りながら、岩壁を這ってゆくと、浅間山の煙が、まぼろしのように、遠い雲の海から、すーっと立っている、峻酷なる死、そのものを仰視するような槍ヶ岳は、槍の大喰《おおばみ》岳を小脇に抱え、常念岳を東に、蓮華、鷲羽《わしば》から、黒岳を北に指さして、岩壁の半圏をめぐらしている、大喰岳の雲の白さよ、蒲田谷へとそそぐ「白出しの沢」は、糸のように、細く眼の下に深谷をのたくって行く、「あの沢は下りられるかね」「どうして瀑《たき》がえらくて、とっても、下りられません、一番の難場でさあ」こんな話が、私と嘉代吉の間に取り交わされた、笠ヶ岳はまともに大きく見える。
襤褸《ぼろ》のように、石がズタズタに裂けている岩壁にも、高山植物が喰いついて、石の頭には岩茸がべったりと纏っている、雪も噛んでみた、黄花石楠花の弁を、そっとむしって、露を吸っても見た、それほど喉が乾いて来た、小さな獣の足跡が、涸谷《からたに》の方から、尾根の方へ、雨垂れのように印している、嘉代吉は羚羊《かもしか》の足跡だと言って、穂高岳も、この辺は殆んど涸谷に臨んでいる絶壁ばかりだと言った、それが垂るんだり、延びたりしているのである。
その「大垂るみ」の絶壁が飛騨側から信州側に移ったとき、垂直線を引き落した、駭《おどろ》くべき壮大なる石の屏風がそそり立って、側面の岩石は亀甲形に分裂し、背は庖刀《ほうちょう》の如く薄く、岩と岩とは鋭く截ち割られて、しかも手をかけると、虫歯の洞《うろ》のようにポロポロと欠けるので、石とも土ともつかなくなっている、手をかけても、危くないように、揺り動かしては、うわべの腐蝕したところを欠く、欠けば欠くほど、ざわざわと屑の石が鳴りはためいて、谷々へ反響する、霧は白くかたまって、むくむくと空を目がけて※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]《あが》って来る、準備の麻の綱を出して、私の胴を縛りつけ、嘉代吉に先へ登って、綱を引いてもらって、岩壁にしがみつきながら、登ったが、さて飛騨から信州側に下りようとしたら、岩の段が崩壊して、どうにもこうにも、ならない、中で頑畳らしい岩を挟んで、A字形に嘉代吉に綱を引いてもらい、それにすがって、少しく下りて、偃松の枝に捉まって、涸谷を眼下に瞰下《みおろ》すようになったが、ここにも大きな残雪があったので、雪と岩片を綯《な》い交《ま》ぜに渡った。
大きな霧が、忍び音に寄せて来た、あたりに暗い影がさした、この魚の骨のように尖った山稜で、雨になられたらとおもうと、水を浴びたように慄《ぞっ》となる、霧がたためく間に灰色をして、岩壁を封じてしまう、その底から嘉代吉の鉈《なた》が晃々と閃めいて、斜めに涎掛《よだれか》けのように張りわたした雪田は、サクサクと削られる、雪の固い粒は梨の肉のような白い片々となって、汁でも迸《ほとばし》りそうに、あたりに散らばる、鉈の穿《うが》った痕の雪道を、足溜まりにして、渡った。
屏風岳は、近く眼前に立て廻され、遥かに高く常念岳は、赭《あか》っちゃけた山骨に、偃松の緑を捏《こ》ね合せて、峻厳なる三角塔につぼんで、東《ひんがし》の天に参している、その迂廻した峰つづきの、赤沢岳の裏地は、珊瑚《さんご》のように赤染めになっている、振りかえれば、今しがた綱を力に踰《こ》えた峻壁の頭は、棹のように霧をつん裂いている、奥穂高につづく尾根は絶高なる槍の尖りを立てて、霧に圧し伏せられる下から、頭を抜き出している、そのうちに偃松が深くなって、尾根が行かれないため、谷へ下りる、もう日が少し高くなったので、雪田の下からは、水がつぶやいて流れている、その溜り
前へ
次へ
全20ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング