と啼いている、どす黒い綿雲がちぎれて、虚空をボツボツ飛んでゆく間から、三日月が燻《い》ぶし銀のように、冷たく光っている、嘉代吉や人夫の寝顔までが、月のうす明りで、芋虫のうす皮のように、透き徹って見える、崖の方を見ると、雲の絶え間から、万年雪が玻璃《はり》の欠片のように白く光って、水の色は、鈍く扁平にひからびている、私は穴蔵へでも引き入れられるような気になって、また石小舎へ戻った、光を怖れる土竜《もぐら》が、地の底へもぐりこむように。

    穂高岳より槍ヶ岳へ

 石小舎の前には、きのうの夕まで、霧や雨で見えなかった御幣岳が、しっとりとした朝の空気に、ビショ濡れになって立っている、一体に粗い布目を置いたように、破れ傷のある岩石は、尾根から尾根へと波をうって、いかにも痙攣《けいれん》的に、吊り上げられたように、虚空を悶《もだ》いている、疲れてまといつくような水蒸気のかたまりが、べっとりと岩を包もうとするのを、峰は寄せつけもせず、鋭く尖った歯を剥《む》き出して、冷やかに笑っている、小舎のうしろには昨日超えた奥穂高が原始の墳墓のように、黒い衣を被《かぶ》って、僧形に立ちはだかって、谷底に小さく動いている人々を見下している、私は振り返って奥穂高を仰いでいたが、その冷たい瞳に射すくめられて、身顫《みぶる》いした。
 前の峰からは、大残雪が横尾の谷へと白く走っている、御幣岳からずり下りに、梓川の方へと立て廻わす大岩壁は、屏風岩とも、仙人岩とも言うそうで、削ったようなのが、大手をひろげて立ち塞《ふさ》がっている、東の空にピラミッド形をしてそそり立っているのは、常念岳らしい。
 石小舎の前には、樺や偃松が、少しは生えて、生々しい緑が捨てられている、谷底一杯は石の破片で埋まっていると言って、いいくらいで、白壁のような残雪が、崖の腹からくずれかかってその破れ石の上を、継ぎ剥ぎに縫っている。
 朝飯が炊けると、嘉代吉はお初穂を取って押しいただいた、山の神さまへ捧げるのだという、私も人夫も、それを四、五粒ずつ分けてもらって、同じように押し頂いて喰べた、奥穂高はと見ると、もういつの間にか、霧がかかった、きょうもまた雨の糸で縫いこめられる象徴《シムボル》のように。
 雪田を峰へかけて、登りはじめる、尾根へ近くかかるとき、富士山や、八ヶ岳や、立科《たてしな》山の、悠《ゆ》ったりと緩やかな傾斜が、いかにも情緒的の柔らかさで、雲の中へ溶けている、それらの山々を浮かせて、白銀のような高層の雲が、あざやかな球体をして、幾重にも累《かさ》なって、千万の鱗《うろこ》が水底できらめくように光っている、「へえこの雲じゃあ、時降《しぶ》りにゃあなりっこなし、案じはねえ」と嘉代吉は受け合っているが、それでも朝日の金光を、中途から断ち切って、霧がぴちゃぴちゃ呟《つぶ》やきながら、そそいで来ると、何とも言われない陰欝《メランコリイ》な暗い影が、頭蓋骨の中にまでさして来る、かとおもうと、霧が散って冴えた空が、ひろがるときは、もう足までが軽々と空へ持ち上げられるような気になる。
 谷の日陰の高山植物は、うら枯れて、昆布のようにねっとりと、本性を失っている、やがて米粒ほど小さな、白のツガザクラが咲いていたとおもうと、偃松が黒く露《あら》われる、岩片は縦横に処狭いまでに喰い合っている、尾根にすぐ近くなって、涸沢岳(北穂高)の三角測量標が、ついと出る、東から南へかけて、富士山、甲斐駒、赤石山系の山々、金峰山、八ヶ岳、立科山が、虚空にずらりと立ち並ぶ、西の方はと見れば、白山がいつものように、残雪を纏《まと》って、大輪の朝顔のような、冴えた藍色が匂やかである。
 尾根の頂上へ出たときは、大斜線の岩壁が、深谷へ引き落されて、低くなったかとおもうと、また兀々《ごつごつ》とした石の筋骨が、投げ上げられて、空という空を突き抜いている、そうして深秘な碧色の大空に、粗鉱《あらがね》を幅広に叩き出したような岩石の軌道が、まっしぐらに走っている。
 日本北アルプスの頂点は、てんでんばらばらに、この大軌道が四方へ放射しているところに、尖り出ているのであるが、その中でも穂高岳から槍ヶ岳へとつづく岩石の軌道は、堅硬に引き締まって、いつも重たい水蒸気に洗われ、冷たい氷雪に磨かれながら、黒光りに光っているのである、この上に立ったとき、私はただもう張り詰めた心になって、金剛杖を取り直した、タケスズメが三羽、絶壁から絶壁を縫うようにして飛んだ、ありゃあ、ここいらじゃあ、スバコと言うだが、随分高いところを飛ぶなあ、と嘉代吉と人夫が、話し合っている、影は見えないが、壁の下から笛の音をポツポツ切って投げつけたような肉声が、音波短かく耳に入る。
 槍ヶ岳が一穂の尖先《きっさき》を天に向けて立っている、白山が殆んど全容をあらわして
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