燃料のないことだけでも、絶望をしなければならなかった。
奥穂高といっても、岩石の逼迫《ひっぱく》した凸った地点に、棒杭一本を打ち込んであるだけのことであった。
そこから、今夜の野営地と決めた谷まで、下りようとしたが、霧のために空へ薄い膜をかけられ、突き破っても、切り払っても、ぼんやりとして一、二尺の先を見つめるのが、精々の努力である、そのうちに霧とも言われない大粒の雨が、防水布の外套を、パチパチ弾《はじ》いて、飛び散る水玉が、石にまで沁みこむようになった、手も凍《こご》えはじめて、下り道を選んでいる暇はない、鋭い山稜だの、崩石だのを迂廻して、一、二丈ばかりの絶壁に行き当った。
ここを下りなくては、谷へ行けそうもないので、準備の綱を出して、嘉代吉にその一端を持たせ、私は金剛杖を先ず投げ出して置いて、空手で綱に縋《すが》った、雨に濡れた麻の綱は、思わずツルツルと辷って、私を不用意に直下させたが、それでも、中途で岩に足を踏んがけ、綱を力に、身を弓のように反らせて下りた、人夫も後から下りて来た、下りては見たが野営地とは方角が違って石炭の粉のように黒く砕けた岩石が、ザラザラと狭い谷へ頽《くず》れ落ちている、谷の水音が雨の音に交ってザアザアと聞える、こんなところじゃあなかったと、嘉代吉は考えていたが、少し戻り気味に岩石の盛り上った堤防を越して、大雪田の頭に出た、陸地測量部員が、去年泊まった跡だとかいう、石を均《な》らして平坦にしたところがあって、燃え残りの偃松が、半分炭になって、散らばっていたが、木材は求められなかった。
その直ぐ下から、大きな雪田が、峻急の傾斜をして、谷へズリ落ちている、雪田の末は、石がゴロゴロしていて、その中に四角な黒檀の机でも、据えたような、大石がある、形がおもしろく目立つので、今まで霧の隙き間から、山稜伝いに眼の下に、眺めていたものだ、それが石の小舎で、今夜はあの石の中に、潜り込むのだと聞いた。
私は雪田の縁辺の断石を履《ふ》んで、下りかけたが、いかにもまだるッこいので、雪を横に切って斜に下りようとした、雪のおもては、焼岳の灰がばらついて、胡麻塩色になっている、雪は中垂るみの形で、岩壁をグイと刳ぐり、涸谷《からたに》に向いて、扇面のように裾をひろげている、その末はミヤマナナカマドの緑木が、斑《まだ》らに黒い岩の上に乗しかかって、夕暮の谷の空気に、湿めッぽく煙っているので、雪の海に、小さな森を載せた島嶼《とうしょ》が突き出ているようだ、私が踏んがけた雪は、思いの外に堅く氷っているので、さらぬだに辷りやすい麻の草履が、よく磨きあげた大理石の廊下でも走るように、止めどもなくつるつると滑り始めた、前にのめって顔でもすりむいてはと、気がかりになって、ちょっと反り身になると、身体が膝を境に「く」の字の角度をして、万年雪のおもてが、蚯蚓張《みみずば》りに引ッ掻かれたかとおもうとき、金剛杖は私の手から引ッたくられたように放り出されて、私は両手で雪を突いた、傾斜がついているから、そのはずみに、軽い体が雪の上を泳ぎはじめた、アッア、アッと本能的に叫んだときには、足の爪先が吊《つ》り上げられたように、万年雪を蹴って、頭の中は冷たい水をさされた、もういきおいのついたうわずった[#「うわずった」に傍点]身体が、雪田の境にある断石の堤防へ、けし飛んで行った。
先へ下りた嘉代吉が、血相かえて、私に抵抗するように、大手をひろげて、向って来たかとおもったとき、私は嘉代吉の懐にグイと抱き締められていた、「どうしました、怪我はしませんか、怪我は」私は黙って首を振った、胸が重石で圧されたように痛い、雪田を下りかけた人夫は杖を突っかいながら、呆気《あっけ》に取られた顔をしている。
しばらくは嘉代吉の肩に凭《よ》りかかりながら、徐々《そろそろ》と雪田を下った、裾の方へ来ると、水音が雨に伴って、ざわつき出した、くるぶし[#「くるぶし」に傍点]を痛めたので、跛足をひきながら、石の小舎へ来た。
石は人の手入れを経ない、全くの自然石で、不思議にも中はおのずと、コ字形に刳ぐられていて、濶さは一坪半ぐらいはあろう、四人ぐらいは潜《もぐ》れそうであるが、うっかり立てば頭を打ちつけるほどに低い。嘉代吉と人夫が荷を卸して、油紙で庇を拵えてくれるのを、待ち兼ねて、石の中へ潜って寝た、雨はざんざ降りになって、庇から岩を伝わっては、ポタポタ雫《しずく》が落ちる、防水布の外套に包まれて、ココアを一杯興奮剤に飲んだまま、飯も喰わずにたわいもなく痲痺したようになって寝た。
夜中にふと眼をさまして、石の外へ這《は》い出して覗《うかが》うと、雨はいつか止んだらしいが、風はゴーッと唸って、樺の稚木《わかぎ》が騒いでいる、聞きなれない禽《とり》が、吐き出すように、クワッ、クワッ
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