壁は、世に見らるる限りの、壮大なる垂直線をして、梓川と蒲田谷の中間にズリ落ち、重たい水蒸気が溜息を吐《つ》くように、谷の底から漂って来て、団々の雲となって、ふうわりと草むらを転げてゆく、雷鳥がちょいと首を出す、人夫が石を投げたので、また首を引っ込めてしまった。
この岩壁の脈から、左の方の低い尾根へと取れば、槍ヶ岳へ行かれるのであるが、私は穂高の峰々を片ッ端から踏んで見たくなったので、私が御幣岳(明神岳または南穂高岳)と呼ぶ三本槍状の穂高を、先へ駈けぬけるつもりで、人夫だけを別れ道に待たせて置いて、嘉代吉と二人で偃松の間をむやみに走った。
眼の下に遠く梓川は、S字状に蜿《う》ねっている、私の足音につれて、石がコロコロと崩れ落ちる、壁一重を隔てて、ざわざわがらがらと、滝のたぎり落ちるような音がする、嘉代吉を振りかえって聞くと、石が崩れているのだという、かの戦慄すべく、恐怖すべき、残忍なる石と石の挌闘《かくとう》と磨滅が始まったのである、私は絶壁を横切りながら、鋭い切れ物で、頬をペタペタ叩《たた》かれるような気持をしながらも、ここまで来ると、岩石の美《うる》わしき衰頽と壊滅は、古城の廃趾のように、寂びを伴って、その石なだれの尖端は、まっしぐらに梓川の谷に走りこんでいる、地心から迸発《ほうはつ》させた岩石の大堆朶《だいたいだ》を元に還すために、傾け尽くされたような、断末魔の時節が、もう到来しているのではないかと思った。
ともかくも三本槍の、一番手前の根もとに達した、それから中央の大身の槍を目懸けて、岩壁の喰い欠かれた大垂るみを走りながら、ようやく取りついた、霧は反古《ほご》を円《まる》めて捨てたように、足もとに散らばりはじめた、東の空に、どうしても忘れられない富士山が、清冷|凜烈《りんれつ》なる高層の空気に、よくも溶けないとおもわれるような、しなやかな線を、八字状に、蛋白色の空に引き、軟かそうな碧の肌が、麗わしく泛《うか》び出た、やや遠くは八ヶ岳、近くは蝶ヶ岳が、雲の海に段々沈んでゆきそうだ。
槍ヶ岳への岐《わか》れ路まで戻って来ると、人夫は親子連れの雷鳥を、石で撲《う》ち殺して、足を縛っているところであった、先刻首を引ッ込めたそれか知ら、とうとう助からなかったかなあと思う、逆さにして荷に括《くく》りつけられたのを見ると、眼は吊上って、赤い肉冠《とさか》は血汐が滲んだように気味悪く、鋭く尖《とが》った爪は、空を掻いて、雉《きじ》に似た褐色の羽の下から、腹へかけて白い羽毛が、もみくしゃに取り乱され、脚の和毛《にこげ》が菅糸のように、ふわふわ空に揺られている、可愛そうだと言った口で、今夜私も一緒になって、この肉を喰うのかなあと思う。
岩壁の大天井まで這い上ると、日輪は爛々として、頭上に高い、西の方乗鞍岳御嶽の大火山脈は紫紺の森と、白雪と、赭岩の三筋に塗られ、南の方木曾山脈は、鳶色の上著《うわぎ》に白雪の襟飾りをつけ、遥かに遠く赤石山系は、鼠がかった雲の中に沈没している、常念岳や、大天井岳は、谷一つの向いに近く、富士と八ヶ岳は、夢のように空に融けようとしている、北では鹿島鎗ヶ岳と、白馬岳を見たが、半分は雲に没して、そこから低く南走した山は、全く雲底に沈んでしまっている、雲と遠山の間の空は、うす気味の悪い蛋白色の透明で、虚無の中をどこまでも突きぬけている。
私のいう西穂高岳へ出ると、ここに、もとは三角測量標があったということであるが、今は奥穂高の方へ移されたので、石の断片ばかり磊々《らいらい》として、小さく堆《うずた》かくなっている、ここは槍ヶ岳へも、岳川岳から岩壁伝いに乗鞍岳へも、また奥穂高へも、行かれるところで、三方への追分路である、雲が天上を縦横に入り乱れて、その影が山に落ちて、痣《あざ》が方々に出来る、常念岳の禿げ頭が光って見える。
それから尾根を伝わって、下り気味になる、ちょいちょい小さく尖った山稜は、大波の間に、さざ波をだぶだぶ打ち寄せたようで、爪先が上ったり下ったりする、石の皺には、黄花の石楠花《しゃくなげ》が、ちらほら咲いている、この花の弁で承けた霧の雫を吸ったときは、甘酸っぱい香気で、胸が透いた。
岩壁は次第に薄い刃となり、擦り切れて、尖っているので、一つの方向ばかり行かれないから、南側を行ったり、北側へ廻ったりする、北側は大雪田で、谷までグイと凹んで、刳《え》ぐられたとこが多い、「今夜の泊まりはあすこだ」と霧のもつれ合っている間から、涸沢《からさわ》の谷底を眼の下に見て、嘉代吉が指さす、その霧のぴしゃぴしゃささやぐ間を、奥穂高岳の絶頂へと辿《たど》りついたが、残雪は六尺ばかり高く築いて、添った壁を蝕《く》っている、奥穂高の前に野営に適したような窪地があったが、石ばかりで、偃松の枝一本見つからないほどだから、
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