薙《な》いだ阿房峠が低く走り、その上に乗鞍岳の頂上が全容をあらわした、左の肩の最高峰朝日岳には、雪が縦縞の白い斑《ふ》を入れている、小さな蚋《ぶよ》が眼の前を、粉雪のように目まぐるしく舞う、森の屋根を剥がされた空からは、晃々として燬《や》き切るような強い光線を投げつける。
「押し出し」は上へ行くほど、石が大きくなって来る、山体の欠片が、岩壁の破れた傷口から、新しく削り取られては、前後左右に無秩序に転がっているのである、眼下には上河内《かみこうち》の峡流が林の中を碧く蜿《う》ねり、ところどころに白い洲に狭められて、碧水が白い泡を立てて流れている、風がさやさやと森を吹き抜いたかとおもうと、焼岳の中腹から麓へかけて森林の中から灰が、砂煙のように白く舞い※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]《あ》がって、おどろくべき速力で、空の一角を暗くするばかりに、ずんずんと進行をはじめる。この灰の行くところ、峠を越え里に出て、今頃は高原の人々に、手を額に加えて仰ぎ視させているであろう。
 岳川を仰ぎながら、「押し出し」は穂高岳の方へと屈曲して行く、それも段々|蹙《せば》まって、乾き切った石の谷も、水がちょろちょろ走りはじめたので、もう雪が近いとおもわれた、梓川は寸線にちぢまり、焼岳は焼け爛《ただ》れた顔面を、半分見せたきりであるが、乗鞍岳はいよいよ高く、虚空を抜いて来た、岳川岳には殆んど雪がなく、白い筋が二、三本入っているだけだ、嘉代吉に言わせると、去年は雪の降り方が、少なかったからだそうだ、雪のないだけに、赭《あか》っぽく薙いだ「崩れ」が、荒々しく刳《え》ぐられて、岩石と一緒に押し流された細い白樺が、揉みくしゃに折られて、枝が散乱している。
 この石の崩れを登っていると、石がキラキラと日光に削られて、眼鏡に照りかえす、「石いきれ」が顔にほてる、それでも「押し出し」が尽きて、右の方の草原へ切れ込むと、車百合や、四葉塩釜《よつばしおがま》や、岩枯梗や、ムカゴトラノオなどの高山植物が、ちらほら咲きはじめて、草むらの間には、石の切れ屑がときどき草鞋を噛む、殆んど登りつめた端は、雪が駭《おどろ》くべき漆黒色をして、黒い岩壁が流動したようである、それが例の焼岳の灰だと解ったが、咽喉《のど》が乾いて堪まらないので、上側を二、三寸掻き取って見ると、中からは綿のような白いのが、現われた、それをしゃぶりながら、焼岳を見ると、半腹以上岩壁が赭っちゃけて、あらわれている、嘉代吉と人夫も、一と息つきながら焼岳の煙を見つめている、「いいねあの煙は」「どうも天気がやかましい」「どうしてね」「あの煙が、乗鞍の方へ寝ると案じはねえだが、飛騨の方へ吹きつけてるから、ちょっとやかましいわい」私は少し心配になって来た、「そこが風の吹き廻しで、解らないところだろうよ」「いんや、西へ吹くと、雨になるだあ、測候所より確かなものだ」という。
 焼岳の麓からは、灰の埃が濛々《もうもう》として、谷の白洲に大きな影をのたくらせながら、徳本峠を圧しかぶせるようにして、里の方へと下りてゆくのが、まだつづく、乗鞍岳の左肩に、御嶽は円錐形の傾斜を長く引いて、弱い紺色に日を含んだ萌黄色が、生暖かい靄のように漂っている、どこからか鶯が啼く、細くうすッぺらな、鋭利な刃物で、薄い空気の層を、つん裂いて、兀々《ごつごつ》とした硬い石壁に突きあたる。灰で塗られた雪田は、風の吹きつけた痕らしく、おもてに馬蹄形の紋をあらわしている、焼岳の右の肩から遠くの空へ、飛騨の白山つづきの山脈が、広重《ひろしげ》の錦絵によく見るような、古ぼけた煤色をぼかしている。
「押し出し」の石崩れも登りつくした、灰を被むって黒く固まった万年雪は、杖も立たないので、人夫が先に立って、鉈《なた》で截《き》っては足がかりを拵《こしら》えた、柱のように斜に筋を入れた岩壁は、両側にそそり立って、黒い門をしつらえたようである、その頭は筆架のように分れて、無数の尖った岩石が、空を刺している、その薄ッペラの崖壁にも、信濃金梅《しなのきんばい》や、黒百合や、ミヤマオダマキや、白山一華《はくさんいちげ》の花が、刺繍をされた浮紋《うきもん》のように、美しく咲いている、偃松《はいまつ》などに捉まって、やっと登ったが、この二丁ばかりの峻直なる岩壁は、日本アルプスにも、比《たぐ》いの多からぬ嶮しさであった、そうして登りよりも降りの方が、なお怖ろしかろうと思われる。
 鋸歯のような岳川岳から、ここ穂高岳に列なっている岩壁は、一波が動いて幾十の波が、互い違いに肩を寄せつけながら、大|畝《う》ねりに畝ねって、頭を尖らせ、裾をひろげて乱立するように、強い線で太い輪廓を劃した立体が、地球の心核を、無限の深さからつかみ上げてすっくと突っ立っているのである、そうして截っ立てた絶
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