つういと、泳いでいる、そのおもてには、水々しい大根を切って落したような雲が、白く浮いている、梓川の水は、大手を切って、気持のいいように、何の滞《とどこおり》もなく、すうい、すーいと流れて行く、その両側の川楊は、梢と梢とが、ずーっと手をひろげて、もう今からは、誰も入れないというように「通せん坊」をして、そうして秘《ひ》っそりと静まりかえってしまう、日が暮れるに随って、梢はぴったりと寄り添って、呼吸《いき》を殺して川のおもてを見詰める、川水はときどき咽《むせ》ぶように、ごぼごぼと咳《せ》きこんで来る。
かかるゆうべに、この美しい梓川の水に、微塵《みじん》も汚れのない、雪のように肌の浄い乙女がどこからともなく来て、裸体になって、その丈にあまる黒髪をも洗わせながら、浴《ゆあ》みをしようではあるまいか、何故といって、秘密の美しさは、アルプスの夕暮の谷にのみ、気を許して覗《うかが》わせるからである、そんなことを考えているうち、雲が一筋穂高山の中腹に横《よこた》わった、焼岳はと見ると、黒い雲が煤紫色にかかって、そのうしろから、ぽっかりと遠い世の物語にでもありそうな雲が、パッと赤く映る。
嘉門次が挨拶がてら、釣った岩魚を持って来てくれた、話を聞くと、岩魚は日が出て暖かくならなければ、浅い水へは出て来ない、この魚は殊に、籔の下へ隠れるものだそうで、やはり小谷よりも本谷に多くいる、漁《と》れるのは旧の三月から十月頃までであるが、そのころはもうまずくなるので、喰って味のよいのは、ちょうど今だと愛嬌をいう。
夜に入っては、私は虫が嫌いなので、障子を締め切ってしまうと、あっちでも、こっちでも障子の外で、カサカサカリカリと忍び音がする、嘴《くちばし》や鬚《ひげ》で、プツリと穴を明けて、中を覗《のぞ》き込んで、呪っているのではあるまいかと、神経が苛々《いらいら》する。
夜など、燭を秉《と》って、湯殿へ通うと、空には露が一杯で、十一月頃の冷たさが、ひしひしと肌に迫る、そうして凸凹のないところは、ないくらいな山の中にも、梓川が、静かな平坦な大道路となって、森の中を幅びろくのしている。
森林より穂高岳へ
河童《かっぱ》橋から、中川という梓川の小支流を渡って、林の中に分け入る、根曲り竹が、うるさく茂って、掻き分けてゆくと、もう水中の徒渉をやらないうちから、胴から下がビッショリになるほど、朝の露が一杯である、林が一と先ず切れると、梓川の本流がうす暗い緑色になって、浅く流れている、青海原の強い潮流が一筋、急《せ》き込んで、古代ながらの大木の、森々とした海峡を押し切ってゆく力強さである。川楊の大木が、嵐にも洪水にも抵抗し抜いて、力も何も尽き果てたというように、ぐったりと根こそぎに、岸から川の中へ打ち倒れているのを、橋代りにして渡ったが、向う岸に着くまでには、三度ばかり冷たい水の徒渉をしないわけには行かなかった。
根曲り竹は益《ますま》す茂って、人の丈より高くなる、人混みの中を、押し分けるように気兼ねをしながら行くと、笹の茂りからは、白い灰がフーッと舞い立って、木の葉の露で手の辷《す》べる杖までが、ザラつくようになった、木の間がくれに焼岳を見ると、肩から上の半分だけ、新しい灰を冠って、死人のように白くなっている、穂高山の方から、岳川が梓川の本流に突っ込んで来るところで、嘉代吉は若い男を振りかえって「兄《あね》ぇ空《そら》(上)へ行けやい」と腮《あご》で指図しながら、杖をコツンと石について考えている。
川添いの森には、苔で青くなった石が丸く寝ている上を、樅《もみ》や椹《さわら》が細い枝を張り合っている、脂くさい空気を突ッついて、ミソサザイがしきりに啼く、岳川から石の谷を登る、水はちっともない、独活《うど》の花がところどころに白く咲いている、喬木はしんしんと両岸に立ちふさがって、空を狭くしているが、木の幹が斑《まだ》らに明るくなるので、晴れてるのだとおもう、どうかすると梢の頭から、水が飜《こぼ》れたように、ちらりと光って、鏡のような小さな空を振り仰がせる、草鞋《わらじ》の底が柔らかくプクプクするので、足の爪先に眼をおとすと、蒼い苔がむくんだ病人の顔のようにふくれて、石の厚蒲団が、暗いところでゴロゴロ寝ている。
樹は次第に稀れになって、空は頭の上にひろがってくる、根曲り竹も少しはあるが、白樺やナナカマドが幹も梢も痩せ細って、石の間に挟まっている、穂高から焼岳へとつづく間の、岳川岳の大尾根は、小槍の穂先のような岩石が尖り出て、波をうって西の空へと走っている、その下から大岩壁の一角が白くなだれをうって、怖ろしい「押し出し」となって、梓川の谷まで一と息に突き切っている。
森が尽きて、この岩石の「押し出し」へ足がかかった、眼の前には焼岳の傾斜をこえて、赤く
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