出来ている、そうして近頃の新火口らしい円い輪形から、貂《てん》の毛のような、褐色な房《ふ》っさりとした烟が、太く立ち上って、頂上から少し上の空を這って、風に吹き靡けられて、別に細い烟が一と筋、山の向う側から立って、頂を舐《な》めているが、その方の噴火口は、宿からは見えない。
山から眼を、宿の庭に移すと、それでも畑をこしらえて、葱《ねぎ》がすこしばかり作ってある、唐松の苗も、植えてある、庭男に聞くと、焼岳が今のように荒れ出さない前には、この谷でも、馬鈴薯や大豆ぐらい、作れたものだそうだが、今ではもう、まるッきり見込がないとのことだ、物干棹には浴衣《ゆかた》などが、干《かわ》かしてある、梓川を隔てて、対岸の霞沢岳の頂は、坊主頭や半禿げの頭を、いくつか振り立てて、白雲母花崗岩の大露出が、いつも雪のように白くなっている、それも胸から以下は、隙き間もないように青い木を鎧《よろ》っていて、麓には川楊の森林が、翠《みどり》の葉を、川のおもてに捌《さば》いている、梓川は温泉宿の前まで来るうちに、多くの沢水をあつめ、この辺から太くなって、水嵩も増し、悠《ゆ》ったりと彎曲して、流れているのであるが、宿からは川楊の木立かくれに、河原が白く見え、せせらぐ水は、白樺や水楊の木の間から、翠の羽を一杯にひろげた孔雀のような、贅沢な誇りの緑を輝やかせて、かなりな傾斜を、スーイ、スーイとのして行く。
朝など、早く起きると、東の低い山の尾根が、最初に白んで、光線が山の頭をうっすりと撫でたかとおもうと、対岸の川楊の頭が、二、三寸だけ、陽炎《かげろう》でも燃え立つように、ちょろりと光る、瞬く間に川に向っている私の室は、朝日が一杯にさしこんで、夕日のように、赤々とまぶしくなる、そのうちに東の山々は、晃々《こうこう》としてさし昇る日輪の強い光に、ぼい消されて、空が赫《かっ》とする、もう仰いでいると、眼のまわりが、ぼやけてしまって、空だか山だか、白金のように混沌として分らない、霞沢岳や八右衛門岳は、その反射を受けて、岩塊が鮮やかに白くなるが、あまりに垂直なる岩壁の森林は、未だ暗黒で、幾分の夜の残りが漂っているようである、そうして梓川の大動脈を間に挟んで、霞沢岳は穂高岳とさし向いになっている、両方の山とも、鋸《のこぎり》の歯のような岩壁を天外にうねらせて、胸部の深い裂け目から、岩石の大腸を露出しているのが、すごくもあるが、この両方の大岳には、五、六月頃になると、山桜や躑躅《つつじ》が、一度に咲いて紅白|綯《な》い交《ま》ぜの幔幕《まんまく》を、山の峡間に張るそうである、それよりも美しいのは、九月の末から十月の半ごろにかけてである、秋とはいえ、霧は殆んどなく、その頃になると、霞沢岳は、裾がまだ緑であるのに、中腹はモミジで紅く燃えるようになり、頭は兀々《こつこつ》たる花崗岩で、厳粛なる大気の中に、白く晒《さら》されている、このように紅緑白の三色をカッキリと染めるのが実に美しいと、温泉宿の主人は、さも惚《ほ》れ惚《ぼ》れとするように話をしてくれる、私は親友水彩画家、大下藤次郎氏が、ある年七月の初めに、ここへ写生に来て「秋になったら、是非も一度、往って見たい」と幾度も繰りかえしていたことを憶い出した――その大下君は、年の秋を待たずに、この神河内《かみこうち》の自然に忠実なるスケッチ数十枚を残して、死なれてしまった。
晴れた日ばかりではない、いま明るいかとおもうと、雲とも霧ともつかぬ水蒸気の一団が、低くこの峡谷に下りる、はじめは山百合の花ほどの大きさで、峡間の方々から咲く、それが見る見るうちに、もつれ合って、大きくひろがると、霞沢岳でも、穂高岳でも、胸から上に怖ろしく高い水平線が出来て、ピタピタと岩壁を圧しつけている、こういうときには、平常緩やかな傾斜を、梓川まで放出して、低く見える焼岳までが、緑の奥行きを深くして、山の線が霧と霧の間に、乱れ打つ、椀を伏せたような阿房《あぼう》峠まで、重たい水蒸気にのしかけられて、黯緑《あんりょく》で埋まった森の中に、水銀が湛えられる、その上に乗鞍岳が、峻厳にそそり立って、胴から上を雲に没している。
谷風がさやさやと、川楊の葉に衣擦《きぬず》れのような音をさせて通行する、雲はずんずん進行して、山の緑は明るくなったり、暗くなったりする。
夕日がさすころになると、岩魚釣がビクを下げて、川縁《かわべり》を伝わって来る、楊の影が、地に落ちて、棒縞がかっきりと路を染める中を、人の足だけが出たり入ったりしている、それから間もなく岩魚の塩焼が、膳にのぼる頃になると、楊の葉の中を、白い蛾《が》が絮《わた》のように飛んで、室を目がけて、夕日に光る障子に、羽影をひらめかせる、風が死んで楊の葉はそよとも動かない。
縁に出て池を見ると、水馬《みずすまし》がつうい
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