水で、小池が二つ出来て、そこにもアルプス藍の底知れぬ青空が映っている、融け水の末は大きな滝となって、横尾谷に落ちて行く、「横尾の大滝」と言われているのだそうだ。
信濃金梅の黄色い花で、滑べっこそうな草原を登る、尾根の岩が一列に黒くなって、空を塗り潰《つぶ》している、草原の中には、黒百合の花も交っている、尾根に近くなって、横尾の谷と本谷を瞰下される、むやみに這って尾根の一角に達せられたときは「横尾の大喰《おおば》み」という絶壁が、支線を派して、谷へ走りこみ、その谷の向うには、赤沢岳が聳えて、三角測量が、天辺《てっぺん》につんとしている、これから尾根伝いに行かれるはずの小槍ヶ岳(中の岳)には、雪が縦縞に、細い線を引き合っている、横尾の大喰みというのは、この辺で、よく熊の喰べ荒した獣の骨が、散乱しているからだと、嘉代吉の話しである。
しかし尾根の一角に達しても、頂上までは未だ間があった、峻急な櫓《やぐら》のような大石が、畳み合って、その硬い角度が、刃のように鋭く、石の割れ目には、偃松が喰い入って、肉の厚く端の尖った葉が、ところ嫌わず緑青《ろくしょう》の塊をなすりつけている、東の方に大天井岳や、燕《つばくろ》岳が見えはじめたが、野口の五郎岳あたりから北は、雪に截ち切られている、脚の下を、岩燕が飛んでいる。
この大岩壁を超えると、うって変った小石の多い、ツガザクラでふっくらとした原となって、偃松が疎《まば》らに平ったく寝ている、白山一華の白花が、ちらほら明るく咲いている、霧が谷の方から長い裾を引いて、来たとおもうと、雷鳥が邪気《あどけ》ない顔をして、ちょこちょこと子供のように歩んで来た、ここに、こわい叔父さんたちがいるよと、言って笑った。
間もなく南岳の三角測量標に着いた、岳という名はつけられたものの、緩やかな高原の一部で、測量標の東面からかけて、谷に向いて、一丈あまりもあろうとおもう高い残雪が、天幕でも張ったように、盛り上っている。
ともかく岩壁を這いずったり、攀《よ》じ上ったりすることは、これからはないと言われたので、急に頭も、手も、足も、解放されたような気になった、もう頭と手足とは、別の仕事をしても、大した差支えはなくなったので、頭では西洋料理が喰べたいなと思っている、青い色や赤い彩の、電燈の下で人いきれのする市街も、悪くはないなと思っている、手は金剛杖をお役目のように引き擦っている、足は何の感覚もなく、小石原や、青草の敷きものの上を辷っている、次第にはびこる霧の中から、常念岳の頭だけが出ているのを見ながら、三つ四つ小隆起を超える、東側には絶えず雪田が、谷へ向いて白い布を晒《さら》している。
槍ヶ岳はいよいよ近く、小槍ヶ岳を先手として、間の「槍の大喰岳」を挟んでいる、小槍ヶ岳の岩石は、鼠色にぼけて、ツガザクラの寸青を点じている、遠くで見たときと違って、輪廓が雄大に刻まれている、そうして中腹には雪田が、涎懸《よだれか》けのように石を喰い欠いて、堆く盛り上っている、その雪田の下の方を、半分以上廻り途して、頂上へと達した。
そこからまた下りになって、尾根へつづく、尾根の突角は屋根の瓦のように、平板に剥《は》げた岩石が、散乱している、嘉代吉は偃松の下で、破れ卵子《たまご》を見つけ、足の指先で雷鳥の卵子だと教えてくれた、この尾根の突角で、深い谷を瞰下しながら、腹這いになり、偃松の枝にのしかかって、頬杖をついて休んだ、空は冴えかえって、額をジリジリ焼くような、紫をふくんだ菫色の光線が、雨のように一杯に満ちている、そうして細い針金のように、ふるえながら、頬にピリつく、嘉代吉や人夫も、偃松の間の石饅頭に、腰を卸して、烟菅《キセル》を取り出し、スパスパやりはじめた、その煙が蒼くうすれて空に燻《くゆ》ってゆくのを、私はうっとりと眺めていたが、耳のわきで、虻《あぶ》のブンブン呻《うな》るのを聞きながら、いい心持に眠くなってきた、凡《す》べて生けるもの、動けるものの、肉から発する音響という音響を、一切断絶して、静の極となった空気の中で、このまま化石してしまいそうだ。「父っさんだ」「オー父っさんだ、早いもんだな」と人夫たちが、騒ぎ出したので、垂るんだ眼の皮を無理やりに張って、谷底を見ると、万年雪の上に、ポツリと黒子《ほくろ》ほどの大きさに点じているものがある、その黒子の点をさがしあてたときには、少しずつ影がずり寄るように、動いているのが解った、嘉門次が米をしょいがてら、温泉からやって来て、今夜嘉代吉と交替する手筈になっていたことが、やっと考え出された、重いまぶた[#「まぶた」に傍点]が、いくらかはっきり[#「はっきり」に傍点]して来た。
高低のある絶壁の頭を越して、峰頭の二分した槍の大喰岳を通過してしまい、やっと槍ヶ岳の根元へついた、そうし
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