茶を汲んで出された盆の、菓子皿には、一と塊まりの蠅がたかって、最中《もなか》が真ッ黒になって動いている、アンペラを著《つけ》た馬が、尾をバサリと振るたびに、灰神楽《はいかぐら》をあげたように、黒いのが舞いあがる、この茶屋は車宿をしているが、蚕もやるらしく、桑の葉が座敷一杯に散らかって、店頭には駄菓子、ビール、サイダーなどが並べられてある。
 乗鞍岳は、始終よく見えたが、林に入る頃には、前山に近くなっただけ、頭をちょっと出して、直ぐ引っ込んだ、常念山塊には、雲が鮨でも圧すように、平ったく冠さって、その隙間から、仏手柑《ぶしゅかん》のような御光が、黄色く焦げるようにさしている、路端に御嶽大権現だの、何々霊神だのという、山の神さまや、行者の名を刻んだ石塔を見るにつけても、もう山国へ来たという感じが、あわただしく頭をそそる。
 アルプスおろしの風は、馬車のズックの日除けを吹きまくって、林の中へ通りぬけ、栗の青葉にバサバサ音をさせて、その行く末は千曲川の瀬音をみだしている、立場の茶屋の前を、水がちょろちょろ流れているのは、さすがに気持がいいが、見る限りの青草は、埃のために灰色に染めかえされて、蜘蛛《くも》の巣までが、埃を荷《にな》って太くなっている、立場つづきの人家は、丈は低いが、檜や椹《さわら》の厚板で、屋根を葺いて、その上に石コロを載せている、松林の間から、北の方に、藍※[#「靜のへん+定」、第4水準2−91−94]《らんてん》色に冴えかえったアルプスの山々を見ると、深沈とした空の碧さと冷たさが、頭脳の中までしん[#「しん」に傍点]と透き通る、雪袴を着けて、檜木笠を冠った女たちが、暑い日盛りを、林の中で働いている、林を出切ると、もう梓川に沿って、山の狭い懐中へと、馬車は揺られながら、入って行くので、間もなく、アルプスの駅路《うまやじ》に突き当りそうなものだという感じを、誰にも抱かせる。

       三

 馬車は新淵橋を渡った、車中の客は、川沿いの高い崖に、丈が達《とど》くまでに枝をのしあっている老楊を、窓から延び上って見た、楊の葉にも幹にも灰がべったりとこびりついて、皺《しわ》だらけの顔に化粧をした白粉《おしろい》が、剥げてむら[#「むら」に傍点]になったようで、焼岳という嫉みぶかい女性の、待女が繊細《かぼそ》い手を出して、河原に立ちながら、旅客を冥府の谷底に招き寄せているのではあるまいかと思われた、崖の高い、曲りくねった路には、長い蔓を這《は》わせて、葛の三ツ葉が、青く重なり合い、その下から川の瀬音が、葉をむくむくと擡《もた》げるようにして、耳に通《かよ》って来る、対岸の山を仰ぐと、斜めに截《き》っ立った、禿げちょろの「截《たち》ぎ」の傍には唐松の林が、しょんぼりと黒く塊まっている。
 山の宿屋というものを、思わせる「糸屋」と看板を出した旅籠屋《はたごや》には、椽側に紡車《つむぎぐるま》を置きっ放しにして、ひっそりかんとしている、馬車はここで停まった。
 私は重い行李を、車の中にしばらく置き去りにして、島々橋を渡った、橋の下は、島々谷の清い水が、蜻蛉《とんぼ》の羽を見るように、底の石を綾に透かして、落ち口には、卵の殻のような、丸い白石が、おのずと並べられて、段を作っている、石灰岩の上を流れるために、いつも濁っている梓川の本流に、この島々谷の水が、いきおい込んで突きかかるところは、灰と緑と両様の水が、丁字に色別けをされて、やがてそれが一つの灰白色に、ごっちゃにされて、縺《も》つれ合いながら、来た後を振り返り、振り返り、グイグイと流れて行くのを見ていると、この流れにも、焼岳の灰が交っているのではあるまいかと、おもわれる、そこから島々谷の水源の方を仰いでは見たが、青々とした山々が、幾重にも襟を掻き合せて、日本アルプスの御幣のような山々を、その背後に封鎖して、見せようともしない。
 島々の清水屋では、それしゃ[#「それしゃ」に傍点]のあがりらしい女房が、昨日からお待ち申していたの、案内者を用意して置いたのが、ムダになったが、未だ足留めをしているのと、よくひとりでしゃべくる、二階に上って、烏賊《いか》に大根おろしをかけたのを肴に、茶のいきおいで、ボソボソした飯を掻き込む、大根の香物が、臭いのには少なからず閉口させられた、かみさんに云い付けて、馬車から行李を運ばせたりしているうちに、頼んで置いた嘉代吉(老猟師嘉門次の悴《せがれ》)も、仕度が出来て待っているというので、単衣《ひとえ》を洋服に着換えるやら、草鞋《わらじ》を引きずり出すやらで、登山装束を整える、そんなことをして午《ひる》を過ごした。

      四

 島々谷に沿って、溯って行くと、杉やら唐松やらが、茂り合って、もうここからは、人と自然の間に線を引かれている、この谷へ入るの
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