谷より峰へ峰より谷へ
小島烏水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)島々《しましま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)見|紛《まぎら》わぬほどに

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「靜のへん+定」、第4水準2−91−94]
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       穂高岳より槍ヶ岳まで岩壁伝いの日誌(明治四十四年七月)

[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
二十日 松本市より島々《しましま》まで馬車、島々谷を溯り、徳本《とくごう》峠を踰《こ》え、上高地温泉に一泊。
二十一日 穂高岳を北口より登り、穂高岳と岳川岳(西穂高岳)の切れ目より、南行して御幣岳(南穂高岳または明神岳)の一角に達し、引き返して奥穂高岳に登り、横尾の涸沢《からさわ》に下り、石小舎に一泊。
二十二日 石小舎を出発して、涸沢岳(北穂高岳)に登り、山稜を北行して、東穂高岳、南岳を経て、小槍ヶ岳(中の岳)、槍の大喰《おおばみ》岳を経て、槍ヶ岳に到り、頂下に一泊。
二十三日 蒲田《がまた》谷に下り、右俣に入りて、蒲田温泉に一泊。
二十四日 蒲田より白水谷を渉《わた》り、中尾を経て、割谷に沿い、焼岳(硫黄山)の新旧噴火口を探りて、再び上高地温泉に一泊。
二十五日 宮川の池に沿いて、宮川の窪を登り、岩壁を直進して、御幣岳の最南峰に登り、各峰を縦走して、二十一日の来路と合し、降路は下宮川谷に入りて、梓川に下り、上高地温泉に帰宿。
二十六日 上高地温泉を発足、徳本峠を越え、島々を経、馬車にて松本に到る。
[#ここで字下げ終わり]

    灰

      一

 汽車が桔梗ヶ原を通行するとき、原には埃《ほこり》と見|紛《まぎら》わぬほどに、灰が白くかかって、畑の桑は洪水にでもひたされたあとのように、葉が泥|塗《ま》みれになって、重苦しく俯向いている、車中の土地の人は、あれがきのう降った焼岳の灰で、村井や塩尻は、そりゃひどうござんした、屋根などは、パリパリいって、針で突っつくような音がしましたと、噴火の話をしてくれる。
 刈り残された雑木林の下路が、むら消えの雪のように、灰をなすりつけている。レールに近く養蚕広告のペンキ塗の看板が、鉛のような鉱物性の色をして、硬く平ったく烈しい日の光に向って立っていたが、汽車と擦れ違いさまに、仆《たお》れそうになって、辛くも踏み止まった。原の中の小さい池には、雲母を流したような雲の影が、白く浮んで、水の底からも銀色をした雲が、むらむら湧いて来る、丹念に桑の葉に、杞杓《ひしゃく》の水をかけては、一杯一杯泥を洗い落している、共稼ぎらしい男女もある、穂高山と乗鞍岳は、窓から始終仰がれていたが、灰の主《ぬし》(焼岳)は、その中間に介《はさ》まって、しゃがんで[#「しゃがんで」に傍点]いるかして、汽車からは見えなかった。これらの山々から瞰下《みおろ》されて、乾き切っている桔梗ヶ原一帯は、黒水晶の葡萄がみのる野というよりも、橇《そり》でも挽かせて、砂と埃と灰の上を、駈けずって見たくなった。
 松本市で汽車を下りたが、青々とした山で、方々を囲まれていて、雲がむくむくと、その上におい冠《か》ぶさっている、山の頂は濃厚な水蒸気の群れから、二、三尺も離れて、その間に冴えた空が、澄んだ水でも湛えたように、冷たい藍色をしている、そこから秋の風が、すいすいと吹き落して来そうである。

       二

 翌くる日、渚《なぎさ》というところから、馬車に乗った、馬車は埃で煙ッぽくなってる一本道を走る、この辺の農家によくある、平ったい屋根と、白い壁が、青々とした杜《もり》の中へ吸い込まれもせずに、熬《い》りつくような日の下で、かっきりと浮き上って見える、埃の路は、ぼくぼくして、見るからにかったるい、その上を日覆いを半分卸した馬車は、痩せて骨立った馬に引かれて、のろのろと歩むかとおもうと、急に憶い出したように、塵をパッパと蹴立てて駈け出す。
 眼の前には、雁木《がんぎ》の凹みのように、小さな峰が分れて、そこから日本アルプスの禿げた頭が、ぐいと出ている、雪の線が二筋三筋ほど、芒《すすき》に白い斑《ふ》が入ったように、細く刻まれて、荒ららかな膚に、美しい白紐を引き締めている。
 馬車は一里もある松林へ入ると松は左へ左へと、すくすくと影を土に落して、往来には、太くまたは細い飛白《かすり》が織られる、年々来るところであるが、ことしはその松林の一区域が、伐り取られて、切株ばかりの原には、芒がぼうぼうと生えている、褐色の蝶が風に吹かれ吹かれて、急にひろくなった原の上を、迷い気味に飛んで行く、林の半ばほどの路で、立場《たてば》茶屋に休む、渋
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