、未だ誰もその外に、入ったものはないと言うので、私はふと聞き耳を立てた。嘉門次は穂高山の主だから、別物として、劫初《ごうしょ》以来人類の脚が、未だ触れたこともない岩石と、人間の呼吸が、まだ通ったことのない空気とに、突き入るということは、その原始的なところだけでも、人間の芸術的性情を、そそのかすものではなかろうか、私は急に習慣の力から脱け出して、栗鼠《りす》が大木の幹に、何の躊躇もなく駈けあがるような、身の軽さをおぼえた。
あの黒曜石のように、黒く光っている穂高山! あのやかましやのトルストイの顔のような、深刻な皺《しわ》を、何十万年となく縮ませている穂高山! 何物をも遠くへ突き放すように、深谷の中で、いつでも、独《ひと》り坊《ぼ》ッちで、苦り切っている穂高山!
私は是非|往《ゆ》こうと決心した、その夜は森の匂いよりも、川瀬のたぎる水音よりも、私の官能は、あの大岩壁の幾重にも乱れ合う拒絶の線の、美しさと怖ろしさを按排《あんばい》した中へ、無理やりに潜《もぐ》り込もうとしては叩き落され、這い込んではずり下《さが》って、蜘蛛《くも》の糸のように虚空に閃めく寸線にも、触れたが最後、しっかりと捉《つか》まって、放すまいとしていた。
二
温泉宿から梓川に沿《つ》いて、河童橋を渡り、徳本《とくごう》の小舎まで来た、飛騨から牛を牽いて、信州へ山越しにゆく牧場稼ぎの人たちが、行き暮れて泊まるところだ。小舎の前の森を突き抜けて、梓川の本谷が屈曲して、また浅緑の森の下蔭へとはいって行く、浅く美しい水の底から、小石の浮紋《うきもん》が、川のおもてに綾を織っている、川は幾筋にも分れて、川鴫《かわしぎ》という鳥が、一、二羽水の面を掠《かす》めて飛んでいる、川をざぶざぶ入って行くので、足の指先から脳天まで、血が失せるかとおもわれるほど、冷いやりとする、向う岸に着いて、根曲り竹を掻きわけ、宮川の池にかけた丸木橋を、危《あぶ》なっかしく渡って、嘉門次の小舎へ来た、小舎のわきに、小さな木祠が祀《まつ》ってあって、扉を開けて見ると、穂高神社奉遷座云々と、禿《ち》び筆で書いた木札などが、散乱している。
唐檜や落葉松が、しんしんと立てこんでいる中を、木祠のうしろへ出ると、そこが宮川の池である、一の池という一番大きいのが、穂高へ寄った方の岸は、青みどろの藻で、翡翠《かわせみ》の羽をひろ
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