て、森々たる喬木の蔭を潜る、すると小さな路がついていて、自然と崖を越して、河原へ下りる、鉱山発掘のあとの洞穴があって、その近傍だけは、木材を截って櫓井戸《やぐらいど》を組み合せ、渋色をした鉱気水が、底によどんでいる、暫らく休んで、鯊《はぜ》のつくだに[#「つくだに」に傍点]で、冷たい結飯《むすび》を喰べたが、折角あったと思った路は、ここで消えてしまっている。「犬は大丈夫かい」「エエエエ直《じ》っきに来ますわ」「どうしてあの崖を駈け登れるだろう」慕門次は笑っている、ひょいと見ると、鼻をフン、フン、やりながら、もういつの間にか、傍へやって来て、嬉しそうに尾を掉《ふ》っている。つくだに飯を喰わせてやる。
また洲を伝わって行くと、山林局の立ち腐れになった小舎にぶつかった、川面が明るくなるかとおもうと、私雨《しぐれ》がそぼそぼと降り出して、たとえば狭い室のうす明りに湯気が立って、壁にぼーッと痣《あざ》が出来るように、山々の方々に立つ霧は、白い黴《かび》のように、森や岩壁にベタベタしている、そうして水分を含んだ日の光に揺れて、年久しく腐った諸《もろも》ろの生物の魂のように、ふわふわしてさまよっている。
もう小山一重を隔てた「左俣の谷」との、出合いが近くなったので、水音は、ごうごうと、すさまじく谷の空気を震動させ、白い姿をした大波小波は、川楊の枝をこづき廻して、さんざめき、そそり立つ切り崖の迫って来る暗い谷底で、手を叩いたり、足踏みをしたり、石に抱きついたり、梢に飛びついたりして、振り返り、振りかえり、濶くなった川幅を、押し合って行く。
その谷の、高原川へと、出合いに近い右の岸に、今夜泊まる蒲田の温泉宿があるのである。
穂高の御幣岳(新登路より初登山の記)
一
信州神河内(上高地)の温泉から、御幣岳(明神岳または南穂高岳)、奥穂高岳、涸沢《からさわ》岳(北穂高岳)、東穂高岳などの穂高群峰を、尾根伝いに走って、小槍ヶ岳(新称)、槍の大喰岳を登り、槍ヶ岳から蒲田谷へ下りて、硫烟のさまよう焼岳を雨もよいの中に越え、また神河内へと戻って来た私は、蒲田谷の乱石を渉《わた》るとき、足首を痛め、弱りこんでいたが、穂高岳の黒く縅《おど》した岩壁が、鶏冠《とさか》のような輪廓を、天半に投げかけ、正面を切って、谷を威圧しているのを、温泉宿の二階から仰ぎ見ていると、こ
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