ぶったかとおもうと、日本アルプスの山々は、回帰線でもあるかのように、雲の中を一筋に放射してゆく、谷より立つ白雲と、氷を削ったような銀色の雲が、もくもくと大空にふさがり合い、その鍔《つば》が朱黄色に染まって、雲が柘榴《ざくろ》のように裂け、大噴火山のように赤くなった、その前に立った日本北アルプスの峰々は、猩紅《しょうこう》色や、金粉を塗った円頂閣となり、色彩の豊麗な宝石を鏤《ちり》ばめた、三角の屋根となった。
 見る見るその雲の大隆起の下には、火の川が一筋流れ、余光が天上の雲に反照して、篝火《かがりび》が燃えたようになった。
 油紙の天幕には、チロチロと漣《さざなみ》の刻むような光りがする、岩石の間に、先刻捨てた尻拭き紙までが、真赤にメラメラと燃えている、この窪地一帯に散乱する岩石の切れ屑は、柔らかく圭角《けいかく》を円められて、赤い天鵝絨《ビロード》色が潮《さ》しはじめた。
 今まで見たこともない、荘厳をきわめた、日本アルプスの夕日!

    谷

 夕焼の凶徴はあった。
 夜中からは、ざんざ降りで、尾根伝いの笠ヶ岳登りを見合せて、蒲田谷へ下りるより、外にしようはなかった。
 峰の上から見おろすと、傾斜面は青い草で、地の色も見えないほど、ふくらんで、掻巻《かいまき》でもかけたように温かそうである、が下り始めると、大きな石や小さな石が、草むらの底に潜《ひそ》んで爪先をこじらせたり、踵《かかと》を辷《すべ》らせたりする、足の力を入れるほど、膝がガクガクするので、支えるさえ大抵ではなかった、ゴム引の黒い雨外套と、頭巾とですっかり身を包んで眼ばかり出していたが、どうかすると、青草の間の石楠花の、雨をふくんだ白い弁に、見惚れては尻餅をつき、行儀悪く両足を前に投げ出して、先へ立って行く嘉門次に、うしろを振り向かせた、私の後からは、荷かつぎが一人|跟《つ》いて来る、私の辷るたびに急に下り足を停めようとしては惰力でよたよたしながら、杖を突いてどうやらこうやら踏み止まる、威勢よく先に立つのは、嘉門次の連れた犬ばかりである、私は辷るのが怖いので、斜面に曲線を描きながら二人の間に挟まれるようにして、それでも次第に谷の中へ下りて来る、下りて来るというより、谷底へと呼び込まれる。
 谷の始まりと思うところには、青草で包まれた小山が、岬のように出ている、小山の向うが左俣谷で、こっちが右俣谷で
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