て去年も登った槍ヶ岳を、しみじみと見上げたが、この何万年も不眠症でいる、原始の巨人《ジャイアント》は、鋼鉄のような固い頭を振り立てて、きょうもまた霧の垂幕を背景《バック》にして、無言のまま日本の、陸地の最も高い凸点にぬーっと立っている、全能の大部分を傾けて、建設したのではないかとまで、壮大にして不滅に近いモニュメントを、私は覚えず敬虔の念を以て礼拝せずにはいられなかった。
槍ヶ岳のすぐそば――といっても、蒲田谷へ向い気味で、やや下った石コロ路の中で、露営を張ることになった、雪はすぐうしろにあるので、煮炊《にたき》に不自由はない、一枚の大岩を屏風とも、棟梁とも頼んで、そこへ油紙の天幕《テント》を張った、夕飯の仕度にかかっているうち、嘉門次もエッサラとあがって来た、去年とは違った小犬を伴につれている、今夜の用意に、来る路の、谷で剥《む》いて置いたという白樺の皮を出して、急拵えの石竈《いしかまど》の下を、燃やし始めた。
霧がすっきりと霽《は》れて、前には笠ヶ岳の大尾根が、赭っちゃけた紅殻《べにがら》色の膚をあらわし、小笠から大笠へと兀々とした瘤《こぶ》が、その肩へ隆起している、遠くの空に、加賀の白山は、いつもの冷たい藍色に冴えて、雪の縞が、むしろ植物性の白い色をおもわせる。
白山から南に、飛騨の山脈が、雪の中に溶けている、北は鎌尾根から、山勢やや高くなって、蓮華岳の、篦《へら》で捏《こ》ねたような万年雪の蝕《むし》ばみが、鉛色に冷たく光っている、それから遥かに、雪とも水平線ともつかぬうすい線が、銀色に空を一文字に引いている、露営地にいると、わずか二、三丁ばかり背後の槍ヶ岳も、兀々と散乱した石の小隆起に遮られて、見えないので、草履を引っかけて出て見る。
いま夕日は赤く照り返しをはじめて、槍ヶ岳の山稜は、赤い煙硝を燃やしたようにボーッとなった、岳から壊《くず》れ落ちた岩石には、ちょろちょろと陽炎《かげろう》が立っている、天幕のうしろの雪は、結晶形に見るようなつや[#「つや」に傍点]もなく、白紙のように、ざらついて、気味の悪いほど乾いている、足許の黄花石楠花が、焔の切れっ端のように燃え出した、「はあれ、きれいな御光だ」と感嘆している嘉門次の顔も、赤鬼のように赤くなっている。
夕日は蓮華岳の頭から、左へ廻って、樺色の雲に胴切りにされ、上半分は櫛のようになって、赤銅色に燻
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