、いかにも情緒的の柔らかさで、雲の中へ溶けている、それらの山々を浮かせて、白銀のような高層の雲が、あざやかな球体をして、幾重にも累《かさ》なって、千万の鱗《うろこ》が水底できらめくように光っている、「へえこの雲じゃあ、時降《しぶ》りにゃあなりっこなし、案じはねえ」と嘉代吉は受け合っているが、それでも朝日の金光を、中途から断ち切って、霧がぴちゃぴちゃ呟《つぶ》やきながら、そそいで来ると、何とも言われない陰欝《メランコリイ》な暗い影が、頭蓋骨の中にまでさして来る、かとおもうと、霧が散って冴えた空が、ひろがるときは、もう足までが軽々と空へ持ち上げられるような気になる。
谷の日陰の高山植物は、うら枯れて、昆布のようにねっとりと、本性を失っている、やがて米粒ほど小さな、白のツガザクラが咲いていたとおもうと、偃松が黒く露《あら》われる、岩片は縦横に処狭いまでに喰い合っている、尾根にすぐ近くなって、涸沢岳(北穂高)の三角測量標が、ついと出る、東から南へかけて、富士山、甲斐駒、赤石山系の山々、金峰山、八ヶ岳、立科山が、虚空にずらりと立ち並ぶ、西の方はと見れば、白山がいつものように、残雪を纏《まと》って、大輪の朝顔のような、冴えた藍色が匂やかである。
尾根の頂上へ出たときは、大斜線の岩壁が、深谷へ引き落されて、低くなったかとおもうと、また兀々《ごつごつ》とした石の筋骨が、投げ上げられて、空という空を突き抜いている、そうして深秘な碧色の大空に、粗鉱《あらがね》を幅広に叩き出したような岩石の軌道が、まっしぐらに走っている。
日本北アルプスの頂点は、てんでんばらばらに、この大軌道が四方へ放射しているところに、尖り出ているのであるが、その中でも穂高岳から槍ヶ岳へとつづく岩石の軌道は、堅硬に引き締まって、いつも重たい水蒸気に洗われ、冷たい氷雪に磨かれながら、黒光りに光っているのである、この上に立ったとき、私はただもう張り詰めた心になって、金剛杖を取り直した、タケスズメが三羽、絶壁から絶壁を縫うようにして飛んだ、ありゃあ、ここいらじゃあ、スバコと言うだが、随分高いところを飛ぶなあ、と嘉代吉と人夫が、話し合っている、影は見えないが、壁の下から笛の音をポツポツ切って投げつけたような肉声が、音波短かく耳に入る。
槍ヶ岳が一穂の尖先《きっさき》を天に向けて立っている、白山が殆んど全容をあらわして
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