槍ヶ岳第三回登山
小島烏水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)手繰《たぐ》られて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)青|※[#「金+嘯のつくり」、第3水準1−93−39]《さ》びた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「風+昜」、第3水準1−94−7]
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雨で閉じこめられた、赤沢小舎の一夜が明ける。前の日、常念岳から二の股を下りて、私たちの一行より早く、この小舎に着いていられた冠君は、今朝も早く仕度を済まされ、「お先へ」と言って、人夫どもを連れて出て行かれる、「若い衆天幕取れやい」と嘉門次の号令がかかる、天幕を組み立てた糸がスルスルと手繰《たぐ》られて、雫のポタポタする重い油紙が、跪《ひざ》まずくように岩盤の上に折り重なる、飯を炊《かし》いだあとの煙が、赤樺の梢を絡んで、心臓形に尖った滑らかな青葉を舐めて、空へ※[#「風+昜」、第3水準1−94−7]《あが》って行く、その消えぎえの烟の中から、人夫が一人ずつ、荷をしょっては、ひょッくり、あらわれる、嘉門次の愛犬「コゾー」もこの登山隊の一員として交っている。
嘉門次が一行の案内を務めるのは、言うまでもない、雨でグッショリ濡れた青草や、仆《たお》れている朽木からは、人の嗅覚をそそるような古い匂いがして、噎《むせ》びそうだ、足が早いので、一丁も先になった嘉門次は、私を振り返って「他所《よそ》の人足は使いづらくて困る」とブツブツ言いながら、赤石の河原に出た。
見上げる限り、花崗の岩壁が聳えて、その壁には白い卓子《テーブル》懸けのような雪が、幾反も垂れている、若緑の樺の木は、岩壁の麓から胸まで、擦り切れるようになった枝を張りつめて、その間から白雪が、細い斑《まだら》を引いている、この川は小舎のうしろへ流れ落ちるのだそうだ、水から飛び上った鶺鴒《せきれい》が、こっちを見ていたが、人が近づいたので、ついと飛ぶ、大石の上には水で描いた小さな足痕が、紋形をして、うす日に光っている。
馬場平(宛字)というところへ来ると、南北の両側に、雪が築き上げられたように多くて、高さは一丈もあろう、それが表面は泥で帆木綿《ほもめん》のように黒くなっているが、その鍵裂きの穴からは、雪の生地が梨の肌のように白く、下は解けて水になっている、その水の流れて行くところは、雪の小さい峡間《はざま》を開いて、ちょろちょろと音をさせている。
右の方を仰ぐと、赤沢岳が無器用な円頂閣のように、幅びろく突ッ立って、その花崗岩の赤く禿げた截断面が、銅の薬鑵《やかん》のような色をして、冷めたく荒い空気に煤ぶっている。
雪は次第に厚く、幅が闊《ひろ》く、辷りもするので、人の鳶口に扶《たす》けられて上った、雪のおもては旋風にでも穿《ほ》り返された跡らしく、亀甲形の斑紋が、おのずと出来ている、その下には雪解の蒼白い水が、澄みわたって、雪の崖から転げ落ちたらしい大石に、突き当って二派に分れ、呟きながら走って行く、大きな削り板のような雪が、継ぎ目から二ツに截り放されたようになって、平行に裂けて口を明けているのもある。
顧れば峡間から東方の霞沢岳連峰の木山には、どす玄《ぐろ》い雨雲が、甘藍《キャベツ》の大葉を巻いたように冠ぶさって、その尖端が常念一帯の脈まで、包んで来ている、雪の峡流は碧い石や黄な石をひたして、水嵩《みずかさ》も多くなって、樺青く雪白い間を走って行くのが、遙かに瞰下されて、先は森林の底に没している。
雪のおもてには枝の折片が刺されていたり、泥土が流れていたりして、いかにもうす汚ない、白馬岳の雪の美しいことは、こんなものでは無いと、高頭君がしきりに説明してくれる。
谷が狭くなって、崖側を行くと、緩いながらも雪の傾斜で辷るから、ミヤマナナカマドの枝を捉えながら上る、前にも増した雪の断裂で、草鞋《わらじ》に踏み蹂《にじ》った雪片は、山桜の葩弁《はなびら》のように、白く光ってあたりに飛び散る。
奥赤沢の切れ込みへ来ると、雪は庖刀《ほうちょう》を入れたように并行に断裂して、その切截面の高さは、およそ二丈もあろう、右へ除け左へ避けて、思わずも雪の薄氷の上を行くと、パリパリと氷柱《つらら》が折れるような音がするので、足下を見ると、大きな穴があって、その穴の蓋の雪が、七八寸の厚さしかない、金剛杖で敲くと、パリッと音がして、崩れ落ちる、穴の下では溶解した水が、渦を巻いている。
前面には阜《おか》のような山が二つ、小隆起をしている、赤沢岳頂上の三角点も、大空を指さしている、谷は次第に高くなる、高くなると共に蹙《せ》まって来て、雪の蜿《う》ねり方も、波のように烈しいが、嘉
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