門次の語るところに依ると、雪の下は大小の石塊ばかりで、雪解けがしたら、却って歩きづらくて堪まらないということだ。その雪には花崗の※[#「雨/毎」、104−17]爛《ばいらん》した砂が黄粉《きなこ》のようになって、幾筋となくこぼれている、色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも、血管が通っているようだ、雪の断裂面は山から吹き下す風のためであろう、何か巨大な爪で掻き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]ったような、掌大な痕を印している。
高山植物も、未だ芽組《めぐ》んだばかりというところで、樺の青味を除けば、谷一面、褐色と白色とに支配せられている、谷は莟《つぼ》んでいる故か、思ったより暖かなので、中岳と仮に名をつけた小隆起を屏風にして、小休みをする、赤沢岳は三十度以上の傾斜をして、岩石の赤い筋と雪の白い斑とが、燃えるような、沈むような光り方をしている、あとから重そうに荷を担いで来る人夫も追いついて、一と塊になって休む。
上り初めると蝶ヶ岳が見える、この山もそれに続く熊村岳(宛字)も、谷から渦まき※[#「風+昜」、第3水準1−94−7]《あが》る飛沫《しぶき》のような霧に、次第に包まれて来る、足許には白花石楠花《しろはなしゃくなげ》や、白山一華《はくさんいちげ》の白いのが、うす明るく砂の上に映っている。
偃松も徐々と、根を張り始めた。
この傾斜を上り切って、ひょいと顔を出すと、槍ヶ岳の大身の槍尖が、すいと穂を立てている、そうして白い雪が、涎懸《よだれか》けのように半月形をして、その根元の頸を巻いている。雪の下からは蒼黯《あおぐろ》い偃松が、杉菜ほどに小さく見えて、黄花石楠花は、白花石楠花に交って、その間にちらほらしている、一団の霧が槍へ吹っ懸けて、白い烟をパッと立てるので、一時は姿を没したが、又穂先だけ鋭く突き出す。
この辺で高頭君は、歩度《ほど》測量計《メートル》を失くしてしまい、私たち一同人夫と共に、附近の偃松を捜索したが、見当らずにしまった(後にこの歩度メートルは、登山家某君に発見せられて、上高地温泉宿に委托せられ、無事に持主の手に戻った)。今来た路の方を振り向くと、峡間の底から、大霧は雪を包んで乱舞を始めている、それは噴火口の底から、硫烟が幾筋も縺《もつ》れ合い、こんぐらかって、騰上するようである。
岩石の大崩れがあって、左の方に石を囲んだ坊主小舎がある、小舎の中は未だ雪が多くて、泊まることは出来そうもない、鍋が一枚蔵してあった、冠君は既に槍ヶ岳登りを終られて、雪を辷り落ちるようにして、下りて来られた、二言三言話を交えて、さっさと下りて行かれる。
ここから見ると、赤沢岳の鞍状の凹みの間から、常念岳が出たが、頂上は雲で見えなかった、昨夜の野営で一日分の食糧が減ったので、人夫の一人を解放して、下山させた。
石の崩れ路を登り始める、人の下りたときの、草鞋や杖で穿《ほ》り返された雪は、橇でも※[#「てへん+曳」、第4水準2−13−5]いたように生々しい傷がついている、その雪も大石に挟まれたところは、石の熱のためか、溶けて境界線が一寸《ちょっと》した溝になっている、先刻見えなかった常念岳が、イガ栗頭をぬいと出す、高野君と高頭君は、ハンド・レヴェルを持ち出して、ためつすかしつ眺めながら、ここより高いとか、低いとか、頻《しきり》に言い合っている。
槍の穂も鼻ッ先に近くなって、崩壊した岩石が折り重なっている、石角を伝わって、殺生小舎へ取りついたが、これでも四人位は泊まれるらしい、強いて詰めれば、八九人は入らぬことはないそうだ、既に今年も泊まった人があると見えて、偃松の半分焦げた枝や炭が、狼藉《ろうぜき》している、小舎の屋根に近いところにも、雪の石小舎がある、ここにもまさか[#「まさか」に傍点]のときには、二人位は寝られそうだ。
槍ヶ岳から下った山稜伝いの、横尾根の外から、穂高山が手に取るように、肩幅の闊《ひろ》い輪廓を見せる、嘉門次は穂高の方を頤《あご》でしゃくって「あれ行くずらえ」と教えた、穂高山の三角測量標をここから見ると、一本の棒が立っているだけだ、「一本切りだ、風で※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》ってじゃて、一本ほか無えだ」と、彼はこう言った、そうして「又一本立てよう」と休息の合図をした。(立ちながら休むときは、脊の担い梯子へ、息杖を当てがって、肩を緩めるので「一本立てる」というのである。)
殺生小舎から槍ヶ岳までは、猟師仲間で八丁と言ったものだそうだが、今じゃそうは無いと言うことだ、ここから上りにかかると、いい加減に疲労《つか》れ初めた一行は、足の遅速に従って、離ればなれになる、私は短気な性分だから、むやみに路を貪って、先になった、そうして傍で見ると、存外に鈍い輪廓をした槍ヶ岳の円
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