柱《コルムン》が、幾本となく縦《たて》に組み合わされた、というよりも大磐石にヒビが入って、幾本にも亀裂したように集合して、その継ぎ目は、固い乾漆《かんしつ》の間に、布目《ぬのめ》を敷いたように劃然《かっきり》としているのが、石油のようにうす紫を含んだ灰色の霧に、吹っかけられて、見るみる痙攣《ひっつ》られたように細くなり、長くなり、分裂の指先をつぼめて、一ツになったかと思うと、又全身を現わして、その霧や雲の間から、避雷針のように突出したのを仰いでいると、全身がもう震動するのである。
やっと槍ヶ岳の頂、といっても槍の穂先からは、まだ蛭巻《ひるまき》ぐらいの位置に当る、平ッたい鞍状地に到着した、槍から無残に崩壊した岩は、洪水のように汎濫している、そうしてこれが巨大なる槍ヶ岳を、目の上に高く聳えしむるために、払われた犠牲であるかと思うと、私は天才の惨酷に戦慄するのである。
槍の穂先へ登る道を忘れたので、むやみに石角に手をかけ、足を托した、石の角は剣の如く鋭く尖って、麻の草鞋が触れるたびに、ゴリゴリ音がする、幾本の繊維が、蜘蛛《くも》の糸のように引き※[#「てへん+止」、第3水準1−84−71]《ち》ぎれて、石の角にへばりついた、肩の尖りを一々登って、ようやく槍の絶頂に突っ立った、槍ヶ岳より穂高へ続く壮大なる岩壁は、石の翼の羽ばたきの、最も強いものであると思われる、眼前の常念山脈では、大天井と燕岳に乱れた雲が、組んず施《ほ》つれつしている。
登りついた左の肩には、三角標の破片と見らるる棒が、一本立っている、そこから山稜を伝わって、右の肩へ出ると、小さな木祠があって、小さな木像一個と、青|※[#「金+嘯のつくり」、第3水準1−93−39]《さ》びた小指ぐらいな銅像が三個、嵌め込まれている、日本山岳会員の名刺が三枚ほど蔵《しま》われている、冠松次郎氏、中村有一氏、加山龍之助氏などで、去年又は本年の登山者である、私も自分の名刺を取り出し、万年筆で、四十三年七月廿七日第三回登山者と、忙しく走り書きして抛げ込んだ、木祠の中には穴の明いた、腐蝕しかかった青銅銭が、落ち散っていた、先刻の上り路で、兼という人足が、ここのお賽銭を拾って村へ還ると、山の御守符というので、五厘銭が白銅一枚には売れると、言った話を憶い出して、微笑《ほほえ》むだけの余裕はあった。
後から来る連中は、やっと尾根にかかって来たが、前に槍に登ったことのある人もいるので、峰《ピーク》にはもう登らないと決めたらしく、一と塊まりに小さく黒くなって休んでいる、私は兀々《ごつごつ》した岩角に一人ぼっちに突っ立って、四方を見廻わした、未だ午前である、硫黄岳の硫烟は、曇り日に映って、東の方へと折れて、連山の頭へ古い綿を、ポツリポツリと※[#「てへん+止」、第3水準1−84−71]《ちぎ》っては投げ出すように、風に吹き飛ばされている、乗鞍岳が濃い藍※[#「青+定」、第4水準2−91−94]《らんてん》色に染まって、沈まり返って、半腹には銀縁眼鏡でも懸けたような雲が、取り巻いている、遠くの峰、近くの山は、厚ぼったい雲の海の中で、沈鐘のように、底も知られず浮き上らずにいる、その瞬間に幻滅する、恐怖すべき透き通った藍色は、大山脈の頭を見ているというよりも、峡間から大海の澄み返って湛えているのを見るようだ、その中で我が槍ヶ岳という心臓が、日本アルプスという堅硬な肉体に、脈を搏っているのだ。
動揺する、動揺する、天上のものは皆動揺して一刻も停まってはいない、霧は乱れ、雲は舞って、山までが上ったり、下ったりしている、森林も揺々《ゆらゆら》と動いている、私は森厳なる大気の下で、吹き飛ばされそうな帽子をしかと押え、三角標の破片に抱きついて、眼下に黒く石のように団欒している一行の人たちを、瞰下しながら、無限の大虚からの圧迫を、犇々《ひしひし》と胸に受けた。
絶壁の下なる大深谷からは、霧がすさまじいいきおいで、皺嗄《しわが》れ声を振り立てて上って来る、近づくほど早くなるかと思うと、端から砕けてサアッと水球を浴びせる、そうして呻りながら、尾根につかまり、槍先へ這いずり上って、犠牲になる生霊もがなと、捜し廻っている。
底本:「日本の名随筆10 山」作品社
1983(昭和58)年6月25日第1刷発行
1998(平成10)年8月10日第26刷発行
底本の親本:「小島烏水全集 第七巻」大修館書店
1979(昭和46)年11月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:林幸雄
2003年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.
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