内者の咳払いが、沈んだ空気を乱しただけだ。
東方を顧れば、箱根足柄にかぶさる雲から、雨脚のような光線が流れて、大裾野は扇の地紙のように、森や小阜《しょうふ》の折目を正しくして、黄色に展開している。朝の霧が、方々から烟のように這《は》っているほど、快晴であるが、一合目辺をカッキリ境界線にして、頭上の富士山は、雲のためにまるで見えず、天上の空次第に低く垂れて、屋根の上を距ること僅《わずか》に三尺。
私は山を包む濃雲に絶望しながらも、屋根へ這い上って、虚空を見ていると、眼の前を灰色の霧は、渦巻いて、髯《ひげ》を伝わる呼吸が、雫となってポタポタ落ちる、鉛筆をポッケットから出して、弟が寒暖計を見て報告する温度を、手帖に記していると、傍から鉛筆の墨が滲《にじ》んで、文字が紙の上で解体するほどの霧だ。
三
眼の前には粒の細かい黒砂が、緩《なだ》らかな傾斜となって、霧の中へ、するすると登っている、登山客の脱ぎ捨てた古草鞋《ふるわらじ》が、枯ッ葉のように点を打って、おのずと登り路の栞《しおり》となっている、路傍の富士薊《ふじあざみ》の花は、獣にでも喰い取られたらしく、剛々しい茎の頭
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