雪の白峰
小島烏水

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)彷徨《さまよ》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)山の三角的|天辺《てっぺん》が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)腹が※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》られ
−−

 アルプスに Alpine Glow(山の栄光)という名詞がある、沈む日が山の陰へ落ちて、眼にも見えなくなり、谷の隅々隈々に幻の光が、夢のように彷徨《さまよ》い、また消えようとするとき、二、三分の間、雪の高嶺に、鮮やかな光が這《は》って、山の三角的|天辺《てっぺん》が火で洗うように耀《かがや》く、山は自然の心臓から滴《た》れたかと思う純鮮血色で一杯に染まる、まことに山の光栄は落日である、さればラスキンも『近世画家論』第二巻に、渚へ寄する泡沫《ほうまつ》と、アルプス山頂の雪とは、海と山とを描いて、死活の岐《わか》れるところだというような意味で書いてある、落日より億万の光線を吸収して、その一本一本に磨きをかけるのは、山の雪である、アルプスばかりではない『甲斐国志』にも、白峰《しらね》の夕照は、八景の一なりとある、山の雪は烈しい圧迫のために、空気泡を含むことが少ないから、下界の雪のように、純白ではない、しかも三分の白色を失って、三分の氷藍色を加え、透明の微小結晶を作って、空気の海に、澄徹に沈んでいる、群山の中で、コバルト色の山が、空と一つに融ければとて、雪の一角は、判然《はっきり》と浮び上る、碧水の底から、一片の石英が光るように。
 蒼醒《あおざ》めて、純桔梗色に澄みかえる冬の富士を、武蔵野平原から眺めた人は、甲府平原またはその附近の高台地から白峰の三山が、天外に碧い空を抜いて、劃然《かっきり》と、白銀の玉座を高く据えたのを見て、その冴え冴えと振り翳《かざ》す白無垢衣《しろむくえ》の、皺《しわ》の折れ方までが、わけもなく魂を織り込もうとするのに魅せられるであろう、水を打ったように粛《し》んみりとした街道の樹も顫《ふる》え、田の面の水も、慄然《ぞっ》として震えるような気がするであろう。
 自分は甲斐|精進《しょうじ》湖に遊んで、その近傍の山から、冬の白峰を見たことを、鮮やかに記憶して
次へ
全7ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング