上高地風景保護論
小島烏水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)将《は》た敬虔なる
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)標高三千百九十二|米突《メートル》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)眼を※[#「※」は目へんに「爭」、374−9]《みは》らせるように
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このたび、松本市に開かれた信濃山岳研究会に、来会したのを、機会として、私は松本市から遠くない、上高地温泉のために、温泉のためではない、日本アルプス登山の中心点のために、将《は》た敬虔なる順礼の心を以て、日本アルプスという厳粛なる自然の大伽藍に詣でる人々のために、同地にある美しい森林の濫伐に関して、公開状を提出する。
信州の山岳の中でも、御嶽や駒ヶ岳などは、古くから多くの登山者を有していたが、宗教が権威を失った今日では、新しい登山家は、種々の理由からして、日本アルプスの中でも、殊に飛騨山脈を選び、飛騨山脈の中でも、最高点の槍ヶ岳や穂高岳の特色ある火成岩の大塊は特に多くの人々を引きつけているらしく思われる。そうして槍ヶ岳や穂高岳への最も好適なる登山地点は、上高地温泉であることは、言うまでもない。
山岳は登山地点の便不便によって、世に著われることの遅速があり、かつ人間との交渉を多少にすることを免かれがたい、欧洲アルプスのマタアホーン山は、日本の槍ヶ岳に類似した峻峰で、久しく人界から超絶していたが、ゼルマットという登山地点が発見せられ、そこにいい旅館が出来て、叮嚀《ていねい》に客を待遇するようになってからは、初めての年に、一ヵ年八十人ぐらいしか登山客のなかった土地が、後には毎年何千人という登山者を見るようになった、アルプス山の最高峰、白山《モン・ブラン》における登山地点、シャモニイ渓谷の発見も、また同様の関係を有している。
我が日本アルプスでも、上高地は、私が明治三十五年に、白骨温泉から梓川を渉《わた》って、霞沢岳を踰《こ》え、この峡谷に下りて、槍ヶ岳へ登ったときは、夏とはいえ、寂寥無人、太古の如き感があって、温泉の湧出《ゆうしゅつ》はあっても、今日のような宿屋は、まだ建っていなかった。その時分上高地峡谷に入る人は、猟師の外に、稀に飛騨の蒲田谷から、焼岳を越えて来るか、あるいはその反対を行く旅人を見るに過ぎなかったのであろうと想像されるが、今日では夏日になれば、登山客がこの谷に多く群集して、数十年来の谷の主《ぬし》、老猟師嘉門次に呆《あき》れた眼を※[#「※」は目へんに「爭」、374−9]《みは》らせるようになった。
私が温泉宿の主人、加藤氏に聞いたところを事実とすれば、明治四十二年は、宿帳に註せられた客が千百三十人、翌四十三年は、千百九十人で、最も混雑する時は、一日に九十人位を泊めることがあったそうである、現に我参謀本部の陸地測量部が、大正元年測量したばかりの槍ヶ岳焼岳二図幅(五万分一図)を、翌年製図発行したことなどは、その早手廻しにおいて、前例のないことで、それは登山者の希望のあるところを容れた結果であろうとも推せられるし、また実際、多数は則《すなわ》ち勢力であるから、多数の登山者を有する山岳は、それだけの要求を有し得らるることと信ずる。
かくの如き繁昌が、単に温泉のためでなく、登山または観光を主要な目的とする客が、その過半数を占めているというに至っては、常念山脈の麓にある、中房温泉がやや似ているとしても、先ず他に例のないところである、上高地が特に多く登山客を吸収する所以《ゆえん》は、槍ヶ岳、穂高岳、霞沢岳、焼岳などの大山岳に登る便利のあること、殊に大山岳は富士や八ヶ岳式の火山を除いて、とかく全容を仰ぎがたいものであるが、穂高岳、霞沢岳、焼岳などは、その威厳ある岩壁の大部分を、この峡谷に展開して、容易に仰視し得られること、焼岳が盛んに噴煙して、火山学者やまた地震学者の注意を惹《ひ》き初めたこと、明浄な花崗質の岩盤を流れる谷水の、純碧と美麗と透徹と、他に比類なきこと、神仙譚を思わせるような美しい湖水のあること、森林のあること、温泉のあること、飛騨への交通路にあることなどであるが、これを一括して言えば、日本北アルプスとも称すべき飛騨山脈の、大殿堂は上高地峡谷によって、その第一の神秘なる扉を開かれたのである。
これを日本アルプスの他の山岳と比較すると、赤石山系の最高点、白峰の北岳などは、標高三千百九十二|米突《メートル》を有して、高さは槍ヶ岳を圧し、形容の尖鋭かつ峻直にして、威厳あることも、あるいは槍ヶ岳以上(甲州駒ヶ岳から見て)とも思われるが、山また山の秘奥にあって、上高地温泉のような好適な登山地点を有していないために、今日でも登る人はおろか
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