、一部の登山家を除いては名さえあまり知られておらぬ、それと同じ運命を有《も》っている山は、長大なる日本アルプスの大山系にはいくらもある、槍ヶ岳にしたところで、もし上高地温泉がなくて、徳本《とくごう》峠から蝶ヶ岳、赤沢岳と迂廻して、この山に登るのであったら、到底今日の登山客を招致することも、また槍ヶ岳が自然崇拝者の、渇仰《かつごう》の標的となるようなことも、出来なかったであろう。
一たび槍ヶ岳や穂高岳に登った人は、日本アルプスに列座する大連嶺の、雪に閃《ひら》めき氷に尖《とが》れる壮観に接して、北へ! 北へ! と、踴躍《ようやく》する自然崇拝者の、憧憬を持ち得られるであろう、それからそれへと、自然に対する愛慕と驚異の情を、有し得るようになるであろう。
さすれば上高地の小峡谷は、日本アルプスの順礼のためには、結縁《けちえん》の大道場である。
しかるにこの美麗なる上高地の峡谷に対して、早くも残虐なる破壊が、その森林から始まった。自然の中でも、比較的に抵抗力の微弱なる森林から初まった。
信州と他国の国境、即ち飛騨境から越中越後の国界へとわたって、多大なる面積を有する壮麗なる国有林は、大林区署の収入を多くする考えからか、あるいは他に理由があるのか、用材の伐り出しに着手せられた、現今は知らぬが、私がかつて聞いたところでは、明科《あかしな》製材所へ出す材料の多くは、梓川や島々川の水源地の森林であったそうで、森林の濫伐は、おのずからその地盤を赤裸《あかはだ》に剥《む》いて、露出させて、水害を頻繁にしたり、大にしたりすることは、今更言うまでもないことであるが、上高地にあってこの感は殊に深い。私はいつぞや雨あがりの日に、上高地の森林に佇《たたず》んで、峡流を視《み》ていた、水の落ちることが早く、今まで見えなかった河底の岩石が、方々から黒い頭を出して、それが一寸二寸と、丈を延ばしてゆく、水の落ちるのが早ければ、溢《あふ》れるのも同じく早いわけである、森林があってさえそれだから、坊主になったときの、惨《みじ》めさがおもいやられる。
上高地は海面を抜くことも高く、気候も寒冷で、地味も瘠《や》せているから、あまり大きい樹木も、深い森林もないわけであるが、それでも、その森の幽邃《ゆうすい》なことと、美しいことは、森影を反映する渓谷の水に一層の青味を加え、梢から梢に唄《うた》い歩く、ガッチ(かけす鳥)の声は、原始的に森林を愛慕する叫びを思わせる、私は一昨年|独逸《ドイツ》の陸軍少佐で、スタインザアという人と、この温泉宿で、一緒になったが、この人は森林国の独逸人だけあって、森林を愛することは、祖国のようである、独逸の山岳会員で、二十年間登山をしているのだそうで、四十三歳になるが、いまだに無妻でいると言っている、何でも財産を山に使い果すつもりだそうで、槍ヶ岳に登って下りて来たところであるが、ちょっとした露出でも、樹木のないところは、山が剥げてしまって、回復は容易に出来ないと言っていたが、上高地に来て、森林の下を逍遥したときには、これこそ真に日本アルプスであると言って、帽子を振って、躍《おど》り上っていたそうだ、その森林は今|安《いず》くに在《あ》る。
日本山岳会の名誉会員、ウォルタア・ウェストン氏は、かつて欧洲アルプスと日本アルプスとを比較して、日本アルプスに欝葱《うっそう》たる森林の多いのを、その最も愛すべき特徴としていた、同氏が穂高岳に登ったとき、あの森林の梢と梢との間に、ハムモックを吊って、満身に月光を浴び、玉露に濡れた一夜の光景を、私に語ったこともあったが、その愛すべき森林は、今いかんの状態にあるであろうか。
その愛すべき森林が、商人に惜しげもなく、払い下げられた、それも、払い下げによって、土地の生産力を大《おおい》に潤《うる》おすわけならば格別であるが、若干の価をも得られべきでないことは、樹木を見ると、大概わかってしまう、売る方のみでなく、現にそれを買った商人は、樹も小さいし、巣を喰ってもいるし、運搬は不便だし、一向引き合わぬと愚痴を飜《こぼ》しながら、ドシドシ斧《おの》を入れさせる、その伐木を何に使用するかと問えば、薪材にして、潰《つぶ》すより外《ほか》、致し方ないと言っている。一昨々年は、温泉宿附近、前穂高一帯の森が、空地になった、友人亡大下藤次郎氏が、ここで描いた水彩画は、今では森林そのもののためにも、遺念《かたみ》になった、昨年は河童《かっぱ》橋から徳本峠まで、落葉松《からまつ》の密林が伐り靡けられた、本年は何でも、田代池の栂《つが》を掃《はら》ってしまうのだそうであるが、あるいはもう影も形もなくなって、屍体《したい》が方々に転がっているかも知れない。
そうして、山骨は露出し、渓水は氾濫し、焼くが如き炎日は直射し、日本アルプス第
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