一の美麗なる峡谷は、荒廃し、欝積熱烈の緑の焔は、白ッちゃけた灰になり、その上に焼岳の降灰が積もって、生々|欣栄《きんえい》の姿を呈した「生の谷」が醜い「死の谷」に変る日も遠くには来ないであろう、一戸の温泉宿はどうなってもいい、一座の槍ヶ岳は、あるいはどうなってもいいかも知れぬ、人間霊魂の内部に潜在する自然に対する驚異の心の消耗は、やがて人情の上に倒影して、恐怖すべきほど、乾燥にして露骨なる時代を、荒廃の谷地に象徴されはしまいか。このような、恐怖すべき時代は、今日では都会を襲って、地方に及ぼそうとしている、土地もあろうに、この峡谷を以て、その時代を象徴させようとするには、あまりに惜しい上高地ではあるまいか。
 一方において、市内の学者たちが、山岳研究会を開催し、山岳地の宿屋は、山光水色の美しさを呼び物にして、登山客を吸引している傍らに、他の一方において森林の伐採を公許して、風景を残賊しているような矛盾衝突した現象を、この国人は何と見られるであろうか、碧空に高く冴《さ》え冴《ざ》えと輝く雪の光にあこがれて、羽を挿した帽を冠った人や、氷斧《アイスアックス》を担いだ人や、または白衣宝冠の人たちが、年々の夏、何千人または何万人となく入り込むのは、この国が日本において、二つとない大自然の誇を有しているためではあるまいか、殊に上高地渓谷は、日本アルプス中に深く蔵せられた珠玉ではあるまいか、私は座《いな》がらその残賊を視るに忍びないので、かくは旅窓に一文を草したのは、この峡谷の森林を管轄する位置に立てる当局者と、森林の興亡を念とせらるる国人に向って、偏《ひとえ》に完然なる保護を乞いたいからである。



底本:「山岳紀行文集 日本アルプス」岩波文庫、岩波書店
   1992(平成4)年7月16日第1版発行
   1994(平成6)年5月16日第5刷発行
底本の親本:「小島烏水全集」全14巻、大修館書店
   1979(昭和54)年9月〜1987(昭和62)年9月
入力:大野晋
校正:地田尚
1999年11月25日公開
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