に匹敵する山岳に対して、もう少し、微細に深刻に入って見たい。
思うに、人事において流行《はやり》や廃《すた》りのある如く、自然においても旧式のものと新式のものが自らある、空中飛行機に駭《おどろ》く心は、やがて彗星を異《あや》しむ心と同一であると云えよう。自然に対しても、近代人は近江八景や、二見ヶ浦の日の出のような、伝習に囚《とら》われた名所や風光で満足が出来ないのである。ちょうど十九世紀に著しく勃興した探検事業は、科学的研究心と合体して、未知数に向い、無人境に向った結果、山岳研究ということが、欧洲より米国に、また日本に伝わって来て、諸々の文明国は、山岳会を有するに至った。何故ならば、山岳は百般の自然現象を、ほぼ面積の大なる垂直体に収容した博物館であり、美術殿堂であるからである。就中山岳の雪は、研究の対象として最も興味のある題目である。
二
山岳は雪を被むるによって、その美しさを一層増す。朝は日を受けて柔和な桃色を潮《さ》し、昼は冴えた空に反映して、燧石《すいせき》のようにキラキラ晃《きら》めき、そのあまりに純白なるために、傍で見ると空線に近い大気を黒くさせて、眼を痛くすることがある。夕は日が背後に没して、紫水晶のように匂やかに見える。筑波山の紫は、花崗石の肌の色に負うことが多いが、富士山の冬の紫は、雪の変幻から生ずる色といっても大過はあるまい。
ただしこれらは遠くで見る山の美しさである、実際日本北アルプス辺の峰頭に立って見ると雪田の美しさは、また別物である、柔かく彎曲する雪田の表面は、刃のような山稜から、暗い深い谷に折れ、窪地に落ちこんでは、軟らかい白毛の動物の背中のように円くなり、長く蜿《く》ねった皴折《ひだ》の白い衣は、幾十回となく起伏を重ねて、凹面にはデリケートな影をよどませ、凸面には金粉のような日光を漂わせ、その全体は、単純一様に見えながら、部分の曲折、高低、明暗は、複雑な暗示に富み、疲れた眼には完全なる安息という観念を与える、そのまた雪白色は、蒼空と映じていかにも微細で尖鋭な、ピンク色に変化させる。
もっともこう言った雪の美しさだけなら、何も高山に限らず、寒帯地方で、もっと大規模に見られるかも知らぬが、高山特得ともいうべきは、空の濃碧であること、色彩の光輝あること、植物の変化と豊饒なることなどが、その背景《バック》になっていることで、北寒地方の雪といえども、これらには辛うじて匹敵し得られるに過ぎまい。
しかしながら山岳の雪は、ただその美観によって研究される価値あるばかりでなく、造山力を有する動作から言っても、雪それ自身の特立した状態から言っても、また生物を保護する恩恵から言っても、興味があるから、以下にこれを説く事にする。
試《こころみ》に諸君と共に、郊外に立って雪の山を見よう、雪が傾斜のある土の上に落ちると、水のように低きに就く性質を有するから、山の皺や襞折《ひだ》の方向に従って、それを溝渠として白い縞を織る。平生はあるとも見えぬ皺が、分明に出来る。そればかりではなく、空線の遥か遠くに、白い頭が方々に出るので、あんな所にも山があったのかと初めて気が注《つ》く。また山の頭のギザギザは、白くなったために、輪廓がハッキリして、一本一本の尖りまで見える。
白い山に碧い空は、最も対照の美なるものである、或植物学者が花の色の最も眼にハッキリ見えやすいのは、緑の葉で包まれた白い花である、と言ったが、碧い空で包まれた白い山も、同じ視線を惹《ひ》くのである。それに反して紫の山となると、碧い空との区別が朦朧としてしまう。その時には、雪の白色を拭き消された夕暮になるのである。富士山を見ると、雪の真っ白なときには、頂上の八朶《はちだ》の芙蓉に譬《たと》えられた峰々がよく別る。山腹に眼をうつすと、あの雪の中で藍になって雪が消えたように見える所がある。あれは宝永の噴火口で、雪が実際は消えていないのであるが、火口壁の陰影で、藍色に見えるのである。少し近づいて見ると、その火口壁の雪は、反対に白紙でも貼りつけたように目立って見える。また方面によっては、二合目位から以下に、雪が及んでいないのは、それも実際雪がないからではなく、森林帯の黒木のために截《た》ち切られているからである。
古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放って眩《まば》ゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる、また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥泥土だのが加わって、黄色、灰色、または鳶色に変ってしまうからだ。殊に日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のお
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