もてが、瀝青《チャン》を塗ったように黒くなることがある、「黒い雪」というものは、私は始めて、その硫黄岳の隣りの、穂高岳で見た、黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※[#「雨かんむり/毎」、346−2]爛《ばいらん》した砂に帰したが、これは誤っている、赤い雪は南方熊楠《みなかたくまぐす》氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本の鬚《ひげ》がある。水中を泳ぎ廻っているが、また鬚を失って円い顆粒となり、静止してしまう、それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである、但し槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言出来ないが、要するに細胞の藻類であることは、確かであろうと信ずる、ラボックの『瑞士《スイス》風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、挙げてあるのも、やはり同一な細胞藻であった、この外にアンシロネマ Ancylonema という藻が生えて、雪を青色または菫色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私は未だそういう雪を見たことはない。(紅雪を標品として採集するには、雪と共に瓶の中へ入れ、フォルマリン薬を臭気強いまで滴下して置けば、雪は無論溶けるが、藻は保存が出来る、ただし紅色はやや久しいうちには、全く失われるが、学術標品としては差支えないのである。)
さて新雪について言うと、低地の気温の高い所で、密集した雲が雨となるように、山岳の高寒地のそれは雪になる、しかし今まで降っていた雪が、低い空気層に入ると、忽《たちま》ち雨と変わることは高山を上下する人のよく遭遇する所である。こういう時、下りて見ると、麓の草原は雨の雫で緑がシットリと輝くのと対照して、山の新しい雪が、キラキラと雲母のように光って、雪と雨とを区別する境界線が、山の中腹に引かれている。これはいわゆる雪線で、よく新聞の電報欄に、昨夜何山の何合目まで降雪ありという、その何合目が即ち雪線に当るのである、しかし地理学で普通に言う雪線もしくは恒雪線などいうのは、そのように雪の供給と消費が、一時に精密に平均する地点を意味するのでなくて、年々落ちる雪の量が、次年の夏に悉く(でなくともほぼ全体)消費される地線を指すので、一年または数年の経過を含めてのことである。――高山の中腹では、この雪線を境としてその上に雪が堆積して、万年雪となり、その万年雪の一部が氷河の運動を起して、徐々《そろそろ》と下落し、遅かれ早かれ、融解するのである。
但し花崗岩や片麻岩質の、石が硬くとも分解しやすい山(日本南アルプスの駒ヶ岳山脈や、関東山脈の西端、甲武信三国境界附近の、花崗岩塊にこの種の高山が多い)は、岩石大崩壊のために遠望すると白くなって雪と紛《まぎ》らわしいが、久しく空気に晒《さら》されているので、雪に比べると晶明な光輝が乏しいので、あまり遠からぬ距離からは、容易に区別される。
かかる高山の雪は、何時《いつ》頃降るだろうか。
一体高山の初雪というのは、改まった暦の初めに降るという意味なのでなく、雪の消滅時季なる夏を通過してから、後に初めて降る雪を言うのである。故に一月元旦に降ったからとて、必ずしも初雪とはいわず、前年の九月や十月頃に降った方のを、かえって初雪と称する。それも山に常住して言うのではなく、遠望して言うのだから、世に報告された初雪なるものが、正しいか否かは疑問である。いわゆる初雪は、一昨々年の調査によると、
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鳥海山(二千百五十七米突) 十月 二日 戸隠山(二千四百二十五米突) 十月 九日
妙高山(二千四百五十四米突)十月 九日 黒姫山(一千九百八十二米突) 同上
八ヶ岳(二千九百三十二米突)十月 十日 刈田岳(一千八百二十九米突) 十月十四日
岩木山(一千五百九十四米突)十月十五日 八甲田山(一千八百五十二米突)同上
槍ヶ岳(三千百八十米突) 十月十九日 白馬岳(二千九百三十三米突) 同上
吾妻山(一千八百六十米突) 十月二十日 大日岳(一千三百九十米突) 同上
四阿山(二千三百五十七米突)十月二十日 阿蘇山(一千五百八十三米突) 十一月廿五日
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この標高は槍ヶ岳と白馬岳とを除いて、従来の地理書に従ったのであるから、当にならないものである。
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で、北から中央、それから南と及ぼして雪の遅速が解る。そうして多くは、その前年または前々年と比べても、同一山において、十日内外の遅速があるのに過ぎないというのであるから、先ず大概の見当
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