た、目ぼしい商家といっては、よろず屋風の荒物屋と、鍛冶《かじ》屋があるくらいのもので、私は靴屋に案内してもらい、氷河に辷《すべ》らない用心に、裏皮を貼《は》りつけて、釘《くぎ》を打ってもらったが、旧式の轆轤《ろくろ》を使って、靴屋のおやじが、シュッ、シュッと、線香花火式にやってくれた。登山の準備をしたくも、碌《ろく》なものがないところで、この節の日本アルプスの登山口の、設備の方が、よほど行き届いているくらいだから、その貧弱さの、見当がつくであろう。
山麓帯の裾野で、日に焼けて、疲労をひどくしたくないので、定めの行程は短いにもかかわらず、翌十日は朝|出立《しゅったつ》した、馬を五頭、一頭は荷物を積んで、案内者の、チャアルス・グーチという男が、裸馬に乗り、アルペン杖を横たえながら、片手で荷馬車を曳《ひ》いて先登に立って行く。私は馬に慣れないので、少なからず閉口したが、同行中の神田憲君は、この仲間では馬術の達人で、ややともすれば遅れがちな私の馬の綱を、時々引いてくれた。
本街道から製材所の横を切れると、もう既に裾野であるが、富士のそれとは違って、乾《かわ》き切った砂漠で、セージと通称する白ッ茶けた草や、マンザニタと呼ばれるところの、灌木《かんぼく》などが茂って、馬蹄の砂が濛々《もうもう》と舞いあがるのには、馬上|面《おもて》を伏せて、眼をねぶるばかりであった。
それでも、森林帯に入るとさすがに涼しい、中でもシャスタ樅《もみ》と呼ばれる喬木《きょうぼく》の一種は、この山、特有とまでゆかなくても、この山の産として最も名高いのであるが、富士の落葉松《からまつ》を、富士松と呼ぶたぐいであるかも知れない。なお登ると、俗にホワイト・バーク・パイン(白皮松)と呼ぶ喬木が出てくる、高さは二百尺位に達するのは珍らしくはない。土地の人たちは、この森林帯の立派さを艶説《えんぜつ》しているが、レイニーア火山や、ベエカア火山の、それに競べると、さほどの物ではない。ホールス・キャムプという平地に出で馬を下り、野営の仕度をする、海抜九千尺、水も少しはある。今は(一九二二年の春から)このところに「シャスタ・アルパイン・ロッジ」という、立派な山小舎が建設されたそうで、毎年六月十五日から九月十五日まで「小舎開《こやびら》き」をやって、一年に四、五百人の宿泊者は、欠かさないという話であるが、私たちの登った頃には未だ小舎はなく、シェラ山岳会考案の「睡眠袋」を馬に積ませて来たので、蓑虫《みのむし》のように、その中にすッぽり潜《もぐ》り込んで寝たが、乾き切った小石交りの砂地の上で、日本アルプスのように、柔らかい草原を褥《しとね》にする贅沢《ぜいたく》は、思いも寄らず、睡眠不足が祟《たた》って、翌《あ》くる日の登山には、大分こたえた。
森林帯の尽きるところから、大雪渓が始まるが、この雪渓の長々しい傾斜は、さすがに白馬岳あたりの比ではない。翌くる十一日の朝、一行はこの単調の雪渓を、のたり、のたりと登って、巨大な堆石《たいせき》を戴いた雪の「テーブル」の側へ立って写真を撮ったり、雪の穴ぼこの中へ、更紗《さらさ》の紋でも切り篏《は》めたように、小さい翼を休めているところの、可憐《かれん》なる高山蝶を、いじくったりして、雪渓を、ものの三千五百尺ばかり登ると、富士山の胸突八丁にも喩《たと》えられるところの、火口壁へとぶつかった。これを越えると、絶頂に辿《たど》りつくことになるので、ここでさえ、高さは一万三千尺近い見当である。最後の噴火のあったという「レッド・ブラッフ」の赭《あか》ら岩が、眉《まゆ》を焦《こが》すばかりに、近く聳《そび》えている。足許《あしもと》一面に、熔岩や、焼石が狼藉《ろうぜき》して、歩きにくい。生憎《あいにく》時計を見ると、かれこれ午後二時に近い、空気も稀薄になり始めて、絶頂まで、遅々《ちち》たる足取りでは、今夜中にホテルまで、戻り得られるか否かも、覚束《おぼつか》ないので、ここから下山することにした。
シャスタへの登路は、氷河踏査を主とするならば、私たちの路を取らずに、南のマック・クラウド村から登るか、またはやや北行して、シャスタとシャスチナ間の、窪地《くぼち》を目指《めざ》して登る方が、よかったということを、後から聞かされた。後の路を取れば、九千尺の高度から、ホイットニイ氷河の末端が出現して、「クレッヴァス」や、堆石の状態がよく判明するということであった。
登山記としては、これだけだ。短くして、呆気《あっけ》ないのは、私も知っている、しかしシャスタ山は、我が富士山の如く、登る山であるが、同時に眺望する山だ。この山を中心にして、周囲の展望は変化する、大空へ掛けた額面として、横から見たり、裏返しに見られる山だ。
私は、その後、幾回となく、山麓を通過した、
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