もろも》ろの疲れ、煩い、興奮は、皆この無辺際空の大屏風《だいびょうぶ》へ来て行き止まりとなる。想像するがままに任せた山、感情を塗りかえした山、その山の暗き森と、深い谷、過去へと深く行き、遠く行くだけ、紀念は次第に成熟する、石の上を走っている水の面の経緯《たてぬき》は、幾世の人の夢を描いては消し、消しては描いているのである。
 神代ながらの俤《おもかげ》ある大天井、常念坊、蝶ヶ岳の峰伝いに下りて来た自分は、今神河内の隅に佇んだ。
 鼻の先には穂高山が削り立っている、水の平らに走る波動に対して、直角に厳《いかつ》い肩を聳やかしている、その胸毛の底に白い蕊《しべ》を点じたのは雪である、アルプス一帯に雪の降るのは、それは早いもので、九月の末には、白くなるほどつもらぬまでも、氷の毛のようなのが石角を弾《はじ》き初める、来年の七、八月まで消えない、最も北へ行くほど深くて、その雪田も大きくなるが、穂高山などは、傾斜が急なのと外気に曝《さら》されているので、雪は蓮華山ほどにはない、紫黒色の大岩が、脚下に吼《ほ》える水に脚を洗わせて、ここのみは冬の雪壁動くかと見るとき、自然の活動元素は、水に集中されてい
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