原始の土である、綿々たる時代の人間の夢が住む、幽寂の谷である、何故かというに、善光寺街道、木曾街道、糸魚川街道などを、往《ゆ》き来《か》う昔から今までの旅人が、振り仰いで見たのは、この奇怪な山々で、追分に立てた路標の石も、峠の茶屋の婆さまも、天外に高く懸れる示現は、別に説明のしようもないから、夏もなお「山は雪が残っているずらあ」と感嘆するくらいなものだ、百人の中《うち》に一人歴史家が来る、名もなき山よ山の奥にも年代やあると、怪訝《けげん》な顔して過ぎてしまったろう、また一人画家が来る、山の紫は茄子《なすび》の紫でもない、山の青は天空の青とも違う、秋に殞《いん》ずる病葉《わくらば》の黄にもあらず、多くの山の色は大気で染められる、この山々の色の変化は、全能の手が秘蔵のパレットを空しゅうして塗った山だ、竟《つい》にこれ我物ならずと、呟《つぶや》いたことであろう、宗教家が来る、博物学者が来る、山の黙示、水の閃めき、人の祈るところ、星の垂るところ、雲の焼くところ、かしこに自然の関鍵を握れるものありと、羨ましくおもったろう、馬士が通る、順礼が通る、農夫が鍬《くわ》取る手を休めて佇《たたず》む、諸《
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