ぎの若い男を伴っている)だけが確に現在[#「現在」に白丸傍点]である、我らは詛《のろ》われているのではないかとおもう、不安を感じないわけにはゆかない、見よ、緑の一色を除いて、生けるものの影とては、何もない、禽《とり》も啼かないから肉声も聴かない。
 白芥子《しろけし》の花のような日光がちらり落ちる、飛白《かすり》を水のおもてに織る、岩魚が寂莫を破って飛ぶ、それも瞬時で、青貝摺の水平面にかえる、水面から底まではおそらく、二、三尺位の深さであろうが、穂高岳を畳んで、延ばしたり、縮めたり、自在にする、水の底に白く透いて見えるのは、石英が沈んでいるのだ。
 二ノ池の方に廻る、池には石が座榻《ざとう》のように不規則に、水面に点じている、岸には淡紅の石楠花《しゃくなげ》が水に匂う、蛇紋が掻き破られて、また岩魚が飛ぶ、石楠花の雫を吸っている魚だから、腸《はらわた》まで芳芬《におい》に染まっていないかとおもう。
 三ノ池は一ノ他の半分ほどしかないが、木が茂って松蘿《さるのおがせ》が、どの枝からも腐った錨綱《いかりづな》のようにぶら下っている、こればかりではない、葛、山紫藤《やまふじ》、山葡萄などの蔓は、木々の裾から纏繞《まといつ》いて翠《みどり》の葉を母木の胸に翳《かざ》し、いつまでもここにいてと言わぬばかりに取り縋っている。
 夕暮になると、件《くだん》の松蘿や、蔓は大蜘蛛の巣に化けて、おだまきの糸の中に、自分たちを葬るに違いない。

     四

 その夜は、上高地温泉に泊った、六年前に来たときは、温泉は川の縁に湧いていて八十年前とかに建てた、破れ小舎があるばかり、落葉は沈む、蛇の脱殻が屋根からブラ下る、猟士ですら、浴を澡《と》らなかったものだが、今は立派な温泉宿が出来た、それにしても客の来るのは、夏から秋だけで、冬は雪が二尺もつもる、風が勁《つよ》くて、山々谷々から吹き※[#「風+陽のつくり」、第3水準1−94−7、157−3]《あ》げ、吹き下すので、砂丘のようなものが方々に出来る、温泉の人々は宿を閉し、番人一人残して里へ下りてしまうそうである、宿は二階建ての、壁も塗らない白木造りで、天椽《てんじょう》もない、未だ新しくて木の匂いがする、これで室《へや》が分けてなかったら、神楽堂だ。
 何という茸か知らぬが、饅頭笠の大きさほどのを採って来て、三度の飯に味噌汁として出されたの
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