でありますが、この「眼には青葉[#「眼には青葉」は太字]」というのは、いうまでもなく、眼の世界[#「眼の世界」に傍点]です。私どもの眼に映る世界です。そしてその対象は、青葉という「色の世界」です。すなわち、私どもの眼は、眼球《めのたま》を通して、青葉という「色の世界」を認識したのです。知ったのです。「ああ、もうスッカリ新緑になったな」と眼は知るのです。しかし、「どこかへ一度遊びに行きたいな」となると、もう眼の領域[#「領域」に傍点]ではないのです。『増《ぞう》一|阿含経《あごんぎょう》』というお経の中には、
「眼は色をもって|食[#「眼は色をもって|食」は太字]《じき》となし[#「となし」は太字]、耳は声をもって|食[#「耳は声をもって|食」は太字]《じき》となす[#「となす」は太字]」
 ということばが出ておりますが、眼の食物は色[#「眼の食物は色」に傍点]です。耳の食物は声[#「耳の食物は声」に傍点]です。よいものを見たい、いい声を聞きたいというのが、眼の楽しみ、耳の楽しみです。仏教の方では人が亡くなった時に香を手向《たむ》けますが、これは「中有《ちゅうう》(中陰)の衆生は、香をもって食《じき》とする」という所からきているのです。したがって食物は、ただ口だけに必要なものではありません。眼にも、耳にも、鼻にも、みんな食《じき》、すなわち食物が必要なのです。
 山ほととぎすの初音[#「山ほととぎすの初音」は太字] 次に「山ほととぎす」というのは耳の世界[#「耳の世界」に傍点]です。杜鵑《ほととぎす》のあの一声は耳の食《じき》です。残念ながら耳の遠い人は、耳の形だけはありますが、肝腎《かんじん》の聴神経が麻痺《まひ》しているので、せっかくの山ほととぎすの初音も聞こえないわけです。次に、「初鰹《はつがつお》」とは、舌の世界です。味覚の世界です。風邪《かぜ》をひいて熱でもあれば、何を食べてもおいしくない[#「おいしくない」に傍点]のは、舌があってもないと同じです。味覚がないから、少しも味がないわけです。すなわちあじない[#「あじない」に傍点]、まずい[#「まずい」に傍点]というのはそれです。で、要するに、この「眼には青葉」の一句には、「眼」と「耳」と「舌」との三つの世界、およびその対象となっているところの「色」と「声」と「味」との三つの境界が表現されているわけです。
 衣更えの気分[#「衣更えの気分」は太字] 次に第二の句は「衣|更《が》え手につく藍《あい》の匂《にお》いかな」というのですが、この句は、つまり、「衣更え」と「手につく藍の匂い」という、二つに解剖してみる事ができます。「衣更え」とは、衣を着かえることで、着ている着物を、ぬぎかえることですから、身体全部に関係するのです。したがってそれは、触覚の世界です。肌《はだ》ざわりがよいとか、着心地がよいとか、わるいとか、いうのはそれです。「触」とはふれる[#「ふれる」に傍点]という字で、英語のタッチに当たります。「手ざわり」だとか「肌ざわり」だとか、いう感じは触れてみなければなりません。次に「手につく藍の匂い[#「藍の匂い」は太字]かな」ということは、「鼻」の世界です。したがってその対象は「香」です。匂いです。よい匂いがする。ほんとうにいい香《かお》りだな、というのはことごとく「鼻」に属するものです。で、この「衣更え」の一句の中には「身」と「鼻」との二つの世界、およびそれの対象となっている「触」と「香」との二つの境界を表わしていることになるのです。かくて私どもは、この「眼には青葉」の句と「衣更え」の句を通じて、ここに眼、耳、鼻、舌、身の「五根」と、色、声、香、味、触の「五境」との関係を知ることができるのです。そして、この五官の中心となって、これを統一する認識の主体が、つまり第六意識です。この意識が「意根」を依り処《どころ》として、一切のものを認識するわけです。しかも、この第六意識は、一切の万物を広く認識するという意味で、「広縁識《こうえんじき》」といわれておりますが、現在だけでなく、過去のこと、将来のことまでも、いろいろ思い考えるのは皆この第六意識の作用《はたらき》です。したがって、この第六識は前《ぜん》五|識《しき》の主人公です。この主人公がシッカリしておればこそ、眼、耳、鼻、舌、身の五識は命じられるままに、よく働くわけです。「人間は考える動物[#「人間は考える動物」は太字]」だといいますが、この考えの主体はこの意識であるわけです。おもうに仏教の立場からいえば、いったい私どもの認識作用[#「認識作用」に傍点]というものは、結局この「根」と「境」と「識」との三つの和合によって生ずるものでありまして、「識」とは認識の主体で、心のことであり、「根」はその識の所依、よりどころ、「境」はつまり所縁、すなわち心によって認識せられる対象であるわけです。しかも私どもの認識を離れて、一切万物は存在しませぬから、『心経』の本文に、

「眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなく、眼界もなく、乃至《ないし》意識界もなし」
 といっているのは、結局「一切は皆空なり[#「一切は皆空なり」は太字]」ということを、くわしく分析して説明したものです。で、頭のするどい[#「するどい」に傍点]人には、はじめから「一切は皆空なり」といえば、すぐに「なるほどそうだ」、とわかるのですが、いまだ「空」の意味を理解しないものは、まず「五|蘊《うん》」の空なることを説き、それでもわからぬものには、「六根」と「六境」の空なることを説明し、さらにそれでもまだ理解し得ないものには、もういっそう詳しく「六根」と「六境」と「六識」の関係を説明したのでありまして、つまりは、「因縁によって作られている、私どもの世界の一切の存在《もの》は、ことごとく空なり」ということを、説明したものにほかならぬのです。まことに「因縁」より生ずる所の、一切のものは、ことごとく空です。したがって一切の事物は、皆すべて相対依存[#「相対依存」に傍点]の関係にあるわけです。もちつもたれつ[#「もちつもたれつ」は太字]とは、独《ひと》り人間同志の問題ではありません。世間の一切の万物、皆もちつもたれつなのです。現代の物理学者は相補性原理といっています。相補性原理とは、もちつもたれつということです。有名なアインシュタインはかつて相対性原理を唱えましたが、もはやそれは古典物理学に属するもので、今日ではすべてのものは、互いにもちつもたれつの関係にある、すなわち相補性原理こそが真実だといわれています。
 したがってそれはもちつ[#「もちつ」に傍点]、もちつ[#「もちつ」に傍点]でもなければ、またもたれつ[#「もたれつ」に傍点]、もたれつ[#「もたれつ」に傍点]でもなく、あくまでもちつ[#「もちつ」に傍点]、もたれつ[#「もたれつ」に傍点]です。まったく「もちつ、もたれつ、互いによらにゃ、人という字は立ちはせぬ」です。宇宙間の一切の事物もそうですが、特に人間はどこまでも、もちつもたれつ、生かし生かされつつあるべきです。しかもそれがとりも直さず因縁の関係です。相対依存の関係です。ところが一切の万物《もの》は、もちつもたれつの存在であるばかりでなく、すべてのものは、ちょうど河《かわ》の水のようにつねに流れているのです。動いているのです。ベルグソンもいっているように、私どもは同じ河の流れに、二度と足を洗うことはできないのです。水の流れは、つねに昼夜をわかたず、流れ流れて止《や》みません。一度足を洗った水は二度と帰らぬ水です。だが、それはひとり河の水ばかりではありません。私どももまた、つねに変化し移りかわっているのです。昨日の私は、もう今日の私ではありません。今日の私は、もはや明日の私でもありません。したがってこの「万物流転」と「相対依存」とは、まさしく因縁という母胎から生まれた、二つの原理であるわけです。縦[#「縦」に傍点](時間的)から見れば万物流転[#「から見れば万物流転」に傍点]、横[#「横」に傍点](空間的)から見れば相対依存[#「から見れば相対依存」に傍点]、この二つの原理は、実に疑うことのできない、宇宙の真理です。しかもこの真理に目覚《めざ》める時、私どもは、そこにはじめて国家、社会、人類の「恩」を感じ、「人生の尊さ」をハッキリ知ることができるのです。自分独りの自分ではない。私独りの私ではない。すべてのものによって養われている私、一切のものによって生かされている自分を、ほんとうに心から知った時、私どもは、そこにしみじみと、今さらながら、恩すなわちおかげさまということを感ずるのであります。ありがたい、もったいない、すまない、という感謝報恩の心は、湧然《ゆうぜん》として、ほとばしり出るのです。したがって、自己《おのれ》の生活に対して、何の懺悔《さんげ》も、反省もなしに、ただいたずらに世を呪《のろ》い、人を怨《うら》むことは、全く沙汰《さた》の限りといわざるを得ないのです。自分の身体にくっついた虱《しらみ》を怨む前に、まず私どもは虱をつけている自己の身体の不潔[#「不潔」に傍点]を反省せねばなりません。しかも一たび「因縁の原理」に目覚め真に「般若《はんにゃ》の空《くう》」に徹したものは、生のはかなさを知ると同時にまた[#「生のはかなさを知ると同時にまた」に傍点]、生の尊さを知るのです[#「生の尊さを知るのです」に傍点]。実をいえば、生ははかないがゆえに尊いのです[#「生ははかないがゆえに尊いのです」に傍点]。「散ればこそいとど桜はめでたけれ[#「散ればこそいとど桜はめでたけれ」は太字]」です。散るところに、花の生命があるように、死んでゆくところに、いや死なねばならぬところに、生の価値[#「価値」に傍点]があるのです。生の尊さ、ありがたさがあるのです。ゆえに空に徹したる人は、生きねばならぬ時には、石に噛《かじ》りついても、必ず生をりっぱに生かそうと努力します。生死《しょうじ》に囚《とら》われざる人は、所詮《しょせん》死を怖《おそ》れざる人です。死を怖れざるゆえに、死なねばならぬときに莞爾《にっこ》と笑って死んでゆくのです。ゆえにそれはいたずらに死を求める人ではありません。「死を怖れず、死を求めず」といった西郷南洲のことばは、真に味わうべき言葉だと思います。昔から「千金の子は、盗賊に死せず」といいます。「君子は分陰を惜しむ」といいます。たしかにそれは真実です。寸陰を惜しみ[#「寸陰を惜しみ」に傍点]、分陰を惜しみ[#「分陰を惜しみ」に傍点]、生の限りなき尊さを味わうものにして[#「生の限りなき尊さを味わうものにして」に傍点]、はじめていつ死んでもかまわない[#「はじめていつ死んでもかまわない」に傍点]、という貴い体験が生まれるのです[#「という貴い体験が生まれるのです」に傍点]。覚悟《はら》ができるのです。いつも「明日」と同盟[#「同盟」に傍点]する人は「今日」の貴さをほんとうに知らない人です。いつも「明日」と約束する人は、「今日」を真に活《い》かさない人です。
 ローマの哲学者ポエチウスは牢獄《ろうごく》のなかで死刑の日を前にして『哲学の慰め』というりっぱな本を書いていますが、これに似た話が中国にもあります。今からちょうど千五百年以前のことです。中国に僧肇《そうじょう》という若い仏教学者がありました。彼は有名な羅什《らじゅう》三蔵の門下で、三千の門下生のうちでも、特に優《すぐ》れたりっぱな学者でありました。しかし、ある事件のため、時の王様の怒りに触れて、将《まさ》に斬罪《ざんざい》に処せられんとしたのです。その時、彼は何を思ってか、七日問の命乞《いのちご》いをいたしました。彼は、その七日間に、獄中において、みんごと『法蔵論』という一巻の書物を書き上げました。そして、従容《しょうよう》として刑場の露と消えたということです。時に彼三十一歳、その臨終の遺偈《いげ》は、まことにりっぱなものであります。「四大|元《もと》主なし。五|陰《おん》本来空。首《こうべ》を以《もっ》て白
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