あきらめることは、豈《あ》に独《ひと》り仏|弟子《でし》のみに局《かぎ》らんや、です。それは、万人の必ず心すべきことではないでしょうか。しかも「生死《しょうじ》を諦めた人」こそ真に「生死を見ざる人」です。生死を見ざる人こそ、実に「生死に囚《とら》われざる人」です。しかも、この生死に囚われざる人にして、はじめて「不生不滅」の真理を、まざまざと味わうことができるのです。
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身はたとい武蔵の野辺《のべ》に朽ちぬとも留めおかまし大和魂
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の辞世を残し、悠々《ゆうゆう》として刑場の露と消えたあの吉田松陰、松陰先生こそ、実に生死に囚われざる人です。生死を怖《おそ》れざる人です。生死に随順しつつ、生死を超越した人[#「生死を超越した人」は太字]です。不生不滅の真理を体得した人、いわゆる死んで生きた人[#「死んで生きた人」に傍点]であります。生前その妹さんに贈った手紙のうちにこんな言葉があります。
死なぬ人[#「死なぬ人」は太字] 「さて死なぬ(不生不滅)と申すは、近く申さば釈迦、孔子と申すお方は、今日まで生きてござるゆえ、人が尊みもすれば、有難《ありがた》がりも、おそれもする。楠正成公じゃの、大石良雄じゃのと申す人は、たとい刃ものに身は失われても、今もって生きてござるではないか」といっていますが、たしかに、それは味わうべき言葉だと存じます。またその愛弟子の一人、品川弥二郎に贈った手紙のうちにも、
「死生の悟が開けぬようでは、何事もなしえない」
ということを、細々《こまごま》と教えていますが、わずか三十歳の若さで、国事に斃《たお》れた吉田松陰こそ、まことに生死を越えた人です。生死[#「生死」に傍点]をあきらめた人であります。
「われ今国の為に死す。死して君親に負《そむ》かず。悠々たり天地の事。鑑照神明にあり」
(吾今為[#レ]国死。死不[#レ]負[#二]君親[#一]。悠々天地事。鑑照在[#二]神明[#一])
といった、かれ松陰の肉体は消えました。しかし、その君国のために生きんとする、尊き偉大なる精神は、今日もなお炳乎《へいこ》として明らかに、儼然として輝いています。
私どもは五十年、七十年と限られた肉体的生命だけをみて、人生を判断せずに、もっと「永い眼」で人生を見直さなければなりません。スピノーザのいわゆる「永遠の相において」人生を眺めなければなりません。自己の永遠の生命を信ずる者は、「不生不滅」です。そこには生死はありません。生死を達観して、人生永遠の生命[#「永遠の生命」は太字]に目覚《めざ》めることが、なんといってもいちばん大切です。肚《はら》ができたというのは、所詮この境地を指していったものです。いまや世界は共同の運命を自覚して一体となりつつあります。世界が真に一つの世界になりつつあるのです。松陰の出た明治維新当時と、今日の日本とは、その世界的地位において、たいへんなひらき[#「ひらき」に傍点]があります。しかし、わが日本民族が真に生くる根本的態度についてはなんら変りないと存じます。私どもは永遠の不朽の生命を深く信ずることによって、あくまでわれらに課せられた世界的使命たる、平和な文化国家の創造のために邁進《まいしん》したいと思うのであります。
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第五講 空に徹するもの
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是[#(ノ)]故[#(ニ)]空[#(ノ)]中[#(ニハ)]無[#(ク)][#レ]色[#(モ)]。
無[#(ク)][#二]受想行識[#(モ)][#一]。
無[#(ク)][#二]眼耳鼻舌身意[#(モ)][#一]。
無[#(ク)][#二]色声香味触法[#(モ)][#一]。
無[#(ク)][#二]眼界[#(モ)][#一]。
乃至無[#(シ)][#二]意識界[#(モ)][#一]。
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新緑の世界[#「新緑の世界」は太字] いつのまにか花の春も去って、若葉青葉に燃ゆる、すがすがしい新緑の世界になりました。武蔵野に住む私どもにとっては、きょうこのごろが一年じゅうでいちばん恵まれた時候です。ところで、この新緑五月のころになると、いつも私どもの頭に浮かんでくるのは、あの有名な、
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眼には青葉山ほととぎす初鰹《はつがつお》
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という句です。説明なしでも、もはや、日本人ならば何人にも十分にわかる句でありますが、これといっしょに新緑のころになると、いつも私の思い起こす句は、あの
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衣|更《が》え手につく藍《あい》の匂《にお》いかな
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という句です。これは衣更えの、新しい、すがすがしい気分を、最も巧みに表わしていることばだと思います。本日はこの二つの句を契機《きっかけ》といたしまして、いささか『心経』の心を味わってゆきたいと思います。
さて、お経の本文は、
「是《こ》の故に、空の中には色もなく、受、想、行、識もなく、眼、耳、鼻、舌、身、意もなく、色、声、香、味、触、法もなく、眼界もなく、乃至《ないし》、意識界もなし」
というのであります。この一節は、仏教の世界観[#「仏教の世界観」は太字]を物語る「三|科《が》の法門」すなわち「蘊」「処」「界」の三種の方面から、「一切は空なり」ということを、反覆《くりかえ》して説いたものであります。ところで、まず「蘊」ということですが、いうまでもなく蘊とは五蘊のことです。もっとも、この五蘊のことは、すでにたびたび申し上げた通り、私たち(我)をはじめ、私たちの世界(我所)を構成している五つの元素です。すなわち眼に見、耳に聞き、鼻に嗅《か》ぎ、舌に味わい、身に触れることのできる一切の客観の世界は、ことごとくこの「色」の中に摂《おさ》まるのです。次に五蘊の中の「受」「想」「行」「識」の四は、意識《こころ》の作用で、すべて主観に属するものです。しかも、主観の主観[#「主観の主観」に傍点]ともいうべきものは、第四の識であって、この意識が、客観の「色」と交渉し、関係することによって、生ずる心象《こころのすがた》が、受と想と行との三であります。したがって「五蘊は空[#「五蘊は空」は太字]」だということは、つまり、世間にある一切の存在《もの》はみんな空だということになるのであります。ゆえに「空の中には色もない、受、想、行、識もない」といえば、私どもも[#「私どもも」に傍点]、私どもの住んでいる世界も[#「私どもの住んでいる世界も」に傍点]、つまり[#「つまり」に傍点]、一切のものはすべて空なる状態にあるのだ[#「一切のものはすべて空なる状態にあるのだ」に傍点]、ただ因縁によって仮に有るものであるから、執着すべき何物もない、ということになるわけであります。
次に「処」とは、十二処ということで、「六根」と「六境」といったものです。ところでその六根とは、あの富士山や御嶽《おんたけ》山などへ登る行者たちが、「懺悔《さんげ》懺悔、六|根清浄[#「六|根清浄」は太字]《こんしょうじょう》」と唱える、あの六根で、それは眼、耳、鼻、舌、身の五官、すなわち五根に、「意根」を加えて六根といったので、つまり私どもの身と心のことです。別な語でいえば心身清浄ということが六根清浄です。そこで、この「根」という字ですが、昔から、根とは、識を発《おこ》して境を取る(発識取境《はっしきしゅきょう》)の義であるとか、または勝義自在《しょうぎじざい》の義などと、専門的にはずいぶんむずかしく解釈をしておりますが、要するに根[#「根」に傍点]とは「草木の根」などという、その根で、根源とか根本とかいう意味です。すなわちこの六根は、六識が外境《そとのもの》を認識する場合は、そのよりどころとなり、根本となるものであるから、「根」といったのです。ところが面白いことには、仏教ではこの「根」をば、「扶塵根《ぶじんこん》」と「勝義根《しょうぎこん》」との二つに分けて説明しておるのです。たとえば、眼でいうならば、眼球《めのたま》は扶塵根[#「扶塵根」に傍点]で、視神経は勝義根[#「勝義根」に傍点]です。したがって、そこひ[#「そこひ」に傍点]の人のごとく、たとい眼球はあっても、視神経が麻痺《まひ》しておれば、色は見えませぬ。これと同時に、視神経はいかに健全でも、盲人のように眼球がなければ、ものを見ることはできないわけです。それゆえに、この「勝義根」と「扶塵根」、つまり「視神経[#「視神経」は太字]」と[#「と」は太字]「眼球[#「眼球」は太字]」との二つが、揃《そろ》って完全であってこそ、はじめて私どもの眼は、眼の作用《はたらき》をするわけです。しかもこれは他の五根についても同様であります。
対象の世界[#「対象の世界」は太字] 次に六境とは、六根の対象になるもので、色《しき》と声《しょう》と香と味と触《そく》と法とであります。六根に対する六つの境界という意味で、六境といったのです。ところで、この六境をまた「六塵」ともいうことがありますが、この場合、「塵」とは、ものを穢《けが》すという意味で、私たちの浄《きよ》らかな心を汚《よご》し、迷わすものは、つまりこの外からくる色と声と香と味と触と法とであるから、「六|境《きょう》」をまた「六|塵《じん》」ともいうのです。「六塵の境界」などというのはそれです。ただし六塵の中の「法塵」は、意根の対象となるもので、嬉《うれ》しいとか、悲しいとか、憎いとかかわいいとかいう精神上の作用《はたらき》(心法《しんぽう》)をいったものです。けだし、以上に申し述べました、六根と六境とが、いわゆる「十二処」といわれるものですが、これをまた「十二|入《にゅう》」ともいっています。「処」は「場所」の所で、「生長」の義と解釈されていますが、六根が六境を受け入れ、よく意識を生長せしめるから、これを「十二処」といったのです。しかしてこの根と境とは互いに渉入し、根は境をとり、境から根を生ずるというように、相互に入れちがって、「渉入」するという意味から「十二処」のことを、また「十二入」といったのです。
最後に「界」とは、詳しくいえば「十八界」ということです。「六根」と「六境」に、さらに「六識」を加えたもので、合計|三六《さぶろく》十八となるわけです。いったい、この認識の作用《はたらき》というものは、「根」と「境」と「識」との三つが、相応じ、一致しなければ、起こらないものです。で、単に「根」と「境」とだけで「識」がなければ、いわゆる「心ここにあらざれば、見れども見えず[#「見れども見えず」は太字]」です。あれどもなきがごとしです。現に私どもが何か仕事に夢中になっているときは、知らぬ間に時間がたってしまいます。一時間、二時間が、ホンの五分か十分ぐらいにしか思えないのです。だが、なにも一時間が十分になったわけではありません。スッカリ時間を超越してしまうから、そう感じるのです。ところで、この「界」という字は、科学の世界とか、哲学の世界とか、あるいは新緑の世界などという場合の、その世界で、差別[#「差別」に傍点]とか区別とか領域とかいう意味です。したがって十八界ということは、十八種類の世界ということで、つまり「根」と「境」と「識」との相対関係によって生じた、十八の世界です。たとえば、「眼根」と「色境」と「眼識」とが和合[#「和合」に傍点]すると、ここに「眼」を中心とする一つの世界ができるのです。それがいわゆる「眼界」です。つまり「眼の世界」です。いまこの『心経』には、最初の「眼界」と最後の「意識界」だけを挙《あ》げて、その中間の「耳の世界」「鼻の世界」「舌の世界」などの、十六界をば、「乃至」という二字で省略してあるのです。
話がたいへんめんどうになりましたから、ここらで一まずきり上げて、最初に申し上げた、あの二首の俳句をかりて、一応いままでいったことを、考え直してみたいと存じます。さてまず最初の「眼には青葉山ほととぎす初鰹」という句
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