たよい家庭もあろうし、悪い家庭もありましょう。だが、なんといってもまず私たちの理想の家庭というのは、両親も揃《そろ》い、子供も幾人かあるという、朗らかな団欒《だんらん》の家庭でしょう。ところで、子に対する親の愛ですが、親の目には幾人子供があろうと、その間には甲乙、親疎の区別はありません。もっとも、父親の子供に対する愛の態度と、母親の子供に対する愛の態度とは、おのずからその愛の表現において、そこに一種の区別がありましょう。「厳父」の愛と、「慈母」の愛、それが区別といえば区別です。それは叱《しか》ってくれる愛と[#「ってくれる愛と」に傍点]、抱いてくれる愛[#「抱いてくれる愛」に傍点]です。叱ってくれる愛、それは智慧《ちえ》の世界です。批判の世界です。折伏《しゃくぶく》の世界です。抱いてくれる愛、それは慈悲の世界です。享受の世界です。摂受《しょうじゅ》の世界です。
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父はうち母は抱《いだ》きて悲しめばかわる心と子やおもうらん
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で、父は打ちとは、叱り手の愛です。それは哲学の領分です。母は抱くとは抱き手の愛です。それは宗教[#「宗教」に傍点]の領域です。智慧の哲学と、慈悲の宗教とは少なくとも仏教[#「仏教」に傍点]においては、二にして一です。「かわる心と子や思うらん」といいますが、それはつまり子供の僻目《ひがめ》です。事実は、父も母も、子のかわいさにおいては[#「子のかわいさにおいては」に傍点]、なんら異なっているところはないのです。ある時は叱り、ある時は抱く、それで子供は横道にそれず、邪道に陥らず、まっすぐにスクスクと伸びてゆくのです。
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うたたねも叱り手のなき寒さかな
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と、一|茶《さ》もいっていますが、たしかに叱り手[#「叱り手」に傍点]のないことは、淋《さび》しいことです。大人《おとな》になればなるほど、この叱り手を要求するのです。頭から、なんの飾り気もなく、自分の行動を批判してくれる人が、ほしいのです。蔭《かげ》でとやかく非難し、批判してくれる人は多いが、面と向かって、忠告してくれる人は、ほんとうに少ないのです。だが、叱り手を要求する私たちは、一方においては、また、黙って抱いてくれる人がほしいのです。善《よ》い悪いは、十分わかっておりながらも、頭からガミガミ叱らずに、だまって愛の涙で抱擁してくれる人もほしいのです。
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この寒さ不孝者|奴《め》が居《お》りどころ
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といった、愛の涙[#「愛の涙」は太字]もほしいのです。
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是れきりでもうないぞよと母は出し
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小言をいいつつも、やはり、わが子かわいさに、財布《へそくり》の底をはたいて[#「はたいて」に傍点]、出してくれる、母の慈愛もほしいのです。不孝者奴と罵《ののし》りつつ、もうないぞよと意見しつつ、なおもわが子をば、慈愛の懐《ふところ》に抱いてくれる親の情けは、否定しつつ、肯定しているのです。智慧の涙[#「智慧の涙」に傍点]と、慈悲の涙[#「慈悲の涙」に傍点]、たといその表現の相《すがた》においては異なっておろうとも、その心持には、なんの違いもないのです。
亡くなった老父のこと[#「亡くなった老父のこと」は太字] いまから二十数年前に亡《な》くなりました私の父は、こんな歌を私に残して逝《ゆ》きました。
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父は照り母は涙の露となりおなじ慧《めぐみ》にそだつ撫子《なでしこ》
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誰《だ》れが詠《よ》んだ歌だか、私にはわかりませんが、たしかにかみしめ、味わうべき歌だと思います。厳父[#「厳父」に傍点]の心と、慈母[#「慈母」に傍点]の心を、一首の和歌に託して、現わした古人の心もちが、優にやさしく、また尊く思われます。今日、三人の子の父となった私には、今さらながら、亡くなった父の慈愛、母の情が沁々《しみじみ》と感ぜられるのです。「子を持って知る親の恩」とは、あまりにも、古い言葉です。しかし、やっぱり、子を持って知る親の恩です。子をもつことによって、はじめて私たちは、亡くなった親のありがたさ、もったいなさを、沁々と追憶するのです。だが、
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さればとて石碑《いし》にふとんもきせられず
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です。なつかしい、恋しい、両親への追憶に耽《ふけ》るにつけても、私は、厳父の心、慈母の情を通じて、そこに哲学としての仏教[#「哲学としての仏教」に傍点]、宗教としての仏教のふかさ、尊さを、今さらながら見直しつつ、沁々と味わっているのであります。
仏心と親心[#「仏心と親心」は太字] 話はつい横道へそれましたが、私どもの家庭の、この厳父の心を、そのままに写したのがあの不動明王という恐ろしい仏です。厳父に対する慈母の心を、そのままに現わしたのが、観自在菩薩《かんじざいぼさつ》というあのやさしい仏です。しかもそれはいずれも「同じ心の仏なりけり」です。いずれも「慈眼視衆生《じげんじしゅじょう》」の仏心の顕現《あらわれ》であります。古来、「|般若[#「般若」は太字]《はんにゃ》は仏の母[#「は仏の母」は太字]」だといっていますが、般若こそ、まことに一切の諸仏をうみ出す母です。諸仏出生の根源です。あの慈母の権化《ごんげ》、観自在菩薩が、深般若波羅蜜多《じんはんにゃはらみた》を行《ぎょう》じて、一切は空なりと観ぜられた、ということは、実にそこに深い意味があるのです。空を観じて空を行ずる。因縁を観じて因縁を行ずる。空観より空行へ、因縁観より因縁行へ、そこに哲学として仏教宗教としての仏教の立場があるのです。古聖が「色即[#(チ)]是[#(レ)]空と見れば、大智を成《じょう》じ、空即[#(チ)]是[#(レ)]色と見れば、大悲を成ずる」といったのは、まさしく、こうした境地を、道破したものであると思います。
たいへん前置が長くなりましたが、すでにお話ししました「因縁」の原理や、ただ今申しましたその話をば、とくとお考えくだされば、これから申し述べることは、自然ハッキリわかってくるのです。さて、ここに掲げてある本文は要するに、「五|蘊《うん》」によって、作られている諸法《もの》はみな空である、という、その空の相《すがた》についていったものです。つまり眼に見える有形の物質と、眼に見えぬ無形の精神とが、集まってできている、この世界じゅうのあらゆる存在は、皆ことごとく空なる姿、すなわち「空なる状態」にあるのですから、生ずるといっても、何も新しく生ずるものではない。滅するといっても、すべてが一切なくなってしまうのではない。汚《きたな》いとか、綺麗《きれい》だとか増《ふ》えたとか、減ったとかいうが、それはつまり個々の事物に囚《とら》われ、単に肉眼によって見る、差別の偏見から生ずるのであって、高処に達観し、いわゆる全体的立場[#「全体的立場」は太字]に立って、如実《にょじつ》に、一切を心の眼でみるならば、一切の万物は、不生にして、不滅であり、不垢《ふく》にして、不浄であり、不増にして不滅だというのであります。ところで、ここには、否定[#「否定」に傍点]を表わす「不」という語が六つあります。いわゆる「六不」ですが、しかしこれはあながち六不に局《かぎ》ったことではなく、いくつ「不」があってもよいわけです。八不[#「八不」に傍点]、十不[#「十不」に傍点]、十二不[#「十二不」に傍点]という語が、お経に出ておりますが、いま『心経』は、この「六不」によって、一切の「不[#「不」に傍点]」を代表させているのであります。で、結局は不の一字[#「不の一字」は太字]さえわかれば、一つの「不」で結構なのであります。いま試みに不生、不滅という語をとって考えてみましょう。さてこの不生[#「不生」に傍点]、不滅[#「不滅」に傍点]という語を、もう一度他の語で申せば、「生滅を滅し已《おわ》る」すなわち「生滅|滅已《めつい》」ということです。あの「いろは歌」でいえば、「うゐのおくやまけふ越えて[#「うゐのおくやまけふ越えて」は太字]」という句に当たるのです。うゐのおくやまを越える、ということは、つまり生死《しょうじ》に囚われる迷いの心を、解脱するということです。しかもそれが不生不滅[#「不生不滅」に傍点]という意味です。生滅を滅し已《おわ》るということです。しかし、一歩退いて考えまするに、「生滅」ということは、変化ということで、少なくとも変化は、生滅によって起こるものです。「無常」、「変化」、「流転」、いずれもそれは疑うべからざる現前の事実です。したがって生滅を滅するとか、あるいは不生不滅だとかいうことは、いかにも、合点のゆかぬことのように思われるのです。まことに、一応は無理からぬことであります。しかし再応、これを吟味しますと、それは、なにも不合理な不可解なことばではありません。すなわち「生滅を滅し已る[#「生滅を滅し已る」に傍点]」ということは、要するに、生に囚われ、滅に囚われる、その「囚われの心[#「囚われの心」は太字]」、「執着の心」を離れるという意味なのです。芭蕉は、俳句の心は「無心所着」といっていますが、この「心に所着[#「所着」に傍点]なし」という境地が、生滅を滅し已るという世界で、ものにこだわりのない日本人の明朗性も、ここにあるのです。ゆえに不生不滅ということは、むかしから仏教学者は、波[#「波」に傍点]と水[#「水」に傍点]との関係のように解釈しています。波という現象の上から見れば、生滅起伏もあるが、水という本体そのものの上には、なんらの変化はないという立場から、「生滅」と「不生不滅」を眺《なが》めて、現象と本体の関係において見てゆくことも、もちろん、必要ではありましょう。しかし、これと同時に、私どもは、生じたといっては喜び、滅したといっては悲しむ、その「囚われの心」、「執着する心」、その「迷いの心」を否定するという意味で、この「不生不滅」の原理を味わってゆかねばならぬと思います。かの「エネルギー不滅の法則」が、科学的真理であるように、また、宇宙の万物を構成する電子の量が、一定不変であるというように、「因縁」の集合によって、できている一切のもの、「空の状態」における一切の事々物々は、ことごとく不生不滅です。不増不減であるのです。
かく申しますと、人あるいはいうかも知れません。「それは宇宙の実相《すがた》は、不生不滅[#「不生不滅」に傍点]かも知れん。いや不生不滅であるだろう。しかしわれわれ個人には、やはり依然として『生滅[#「生滅」に傍点]』という事実があるではないか。生きたり、死んだりする事実があるのじゃないか。われわれは、そんな宇宙[#「宇宙」に傍点]がどうの、不生不滅[#「不生不滅」に傍点]がどうの、空[#「空」に傍点]がどうの、般若[#「般若」に傍点]がどうのというような、自分らの生活と、全く縁の遠い理窟《りくつ》を、聞こうとは思わないのだ」と難詰《なんきつ》せられる方があるかも知れませぬ。が、しかしです。「無用の用[#「無用の用」は太字]」こそ「真の用」ではありませんか。理窟と見るは所詮《しょせん》僻目《ひがめ》です。「空」の原理、「不生不滅」の真理、それは偽ることのできない道理[#「道理」に傍点]です。いや、どうしても疑うことのできない事実です。仰せの通り、われわれ個人には、生き死にがあります。「自分の家」では、赤ん坊が生まれたかと思うと、「隣りの家」では、悲しい不幸が起こっているのです。人に生死[#「生死」に傍点]があるように、世間にもまた生滅があります。
しかしその生死の根本を尋ねたならばどうでしょうか。道元|禅師《ぜんじ》はいっております。
生をあきらめ死をあきらめる[#「生をあきらめ死をあきらめる」は太字] 「生を諦《あきら》め、死を明らむるは、これ仏家一大事因縁なり」
と。だがしかし、生を諦め、死を
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