と[#「まなこということ」は太字] 昔のある書物に、「人間の眼を、まなこ[#「まなこ」に傍点]というは、真ん中をとる義なり」といっておりますが、たしかに面白いことだと思います。一方だけを見て、他の一方を見ないのでは、「まなこ」とはいえないのです。物の表面だけをみて、その裏にかくれている、ほんとうの相《すがた》を見ないことを、「皮《ひ》相の見」と申しますが、それはいまだ、真に「まなこ」の「まなこ」たる所以《ゆえん》を知らざるものといわねばなりません。今日の社会には、物質だけで、お金だけで何もかも解決できるものだと考えて、お金を「守り本尊」としている人がずいぶん多いのです。お金がもの[#「もの」に傍点]をいう世の中だと信じている方がたくさんあります。だがお金がものいわぬ[#「ものいわぬ」に傍点]ことも世間には存外に多いのです。収入《みいり》の多寡によって、月給の多少によって、その人の人格までも、批判してもよいものでしょうか。人格は果たして金銭以下[#「金銭以下」に傍点]でしょうか。今日の多くの人たちは、各自《めいめい》、お金を使っているようで、その実、お金に使われている[#「お金に使われている」に傍点]のではないでしょうか。お金を使うならまだしも、使われるに至っては、全く沙汰《さた》のかぎり[#「のかぎり」に傍点]といわざるを得ないのです。だが、事実はその通りだから、ほんとうに情けないわけです。「月給の順で先生並ぶなり」という川柳がありますが、こうなると先生の席順も寂しいものです。だが果たしてそれが正当な見方でしょうか。終戦後、わが国では食糧飢餓を契機《きっかけ》に、生活不安、思想の動乱の結果、再び新しく「唯物史観」、「経済史観」が、見直されつつあります。しかしパンなくては生きられぬ人間は、パンのみでも生きられぬ存在です。物質だけで[#「物質だけで」に傍点]、経済だけで[#「経済だけで」に傍点]、複雑な社会の歴史が、十分に説明し得られるとは考えられません。フォイエルバッハのように「社会問題は、結局胃の腑《ふ》の問題だ」という唯物論的な見方にも、もちろん一面の真理があります。それはたしかに一つの見方[#「一つの見方」に傍点]です。一つの見方としては間違いではないでしょう。しかしそれは決して、全体的な正しい見方[#「全体的な正しい見方」に傍点]ということはできないでしょう。「|管[#「管」は太字]《くだ》の穴から天|覗[#「の穴から天|覗」は太字]《のぞ》く[#「く」は太字]」という諺《ことわざ》があります。むろん、覗いた天も天です。しかし、それはあくまで、天の一部であって、断じて天の全部ではありません。一部を覗いて、全部だと考えることは、大なる「認識不足」といわざるを得ないのです。「井蛙管見《せいあかんけん》」として排撃せられるのも、また無理からぬことです。したがって、少なくとも唯物史観[#「唯物史観」に傍点]に囚《とら》われ、「利益社会」だけをもって、社会のすべてだと考えることは、どこまでも偏見です。いや、偏見というよりも、むしろ恐るべき危険[#「恐るべき危険」に傍点]が、そこに伏在していると存じます。いったい、ものを深く本質的に、また立体的に考えない人々には、なんといっても形のない心よりも、形のある物の方が、眼にはよく見えるものです。で、自然と心より物の方がほんとうの存在のように考えるのですが、物だけで、パンだけで一切の問題が解決されると思ったら、それこそ大間違いです。しかし、そういったからといって、私どもは、一切は心からだといって、精神だけで、人間も社会も、動いているものと、いうのではありません。唯物史観が偏見であったごとく、何もかも心だ[#「何もかも心だ」に傍点]、といって物質生活、経済生活を否定することも、また同じ意味において、偏見といわざるを得ないのです。精神だけでもって、思想だけでもって、社会が動いていると考えている人は、おそらくないと存じます。「わが抱《いだ》く思想はすべて金なきに因するごとし秋の風吹く」と、薄命詩人石川|啄木《たくぼく》は詠《よ》んでいます。経済のみ[#「経済のみ」に傍点]によってとは、あえて申しませぬが、パンによって、経済によって、現実の社会が動いていることもまた見逃《みのが》しえない事実です。「共同社会」の一面には、儼然《げんぜん》として「利益社会」の存在することも、ハッキリ知っておかねばなりませぬ。だから、唯物論的な見方も、偏見であるように、観念論的な見方も、正しい見方、正見とはいえないのです。意識が存在を決定するように、また存在も意識を規定するのです。私は十数年前から、仏教史観[#「仏教史観」に傍点][#「仏教史観[#「仏教史観」に傍点]」は太字]ということを提唱してきました。この言葉は私がはじめて造ったといっていいのですが、これは、物と心とを一つのものに対する、二つの見方として、眺《なが》めてゆこうという、つまり、全体的立場、もちつもたれつ[#「もちつもたれつ」に傍点]という因縁の立場[#「因縁の立場」に傍点]、縁起の意味においてこの二つのものを、一つのものの内容[#「一つのものの内容」に傍点]として見てゆこうというのです。だから、それは縁起史観といってもよいのです。たいへん、話がめんどうになりましたが、ちょうど人間に肉体と精神との二方面があるように、人間の社会にも、物質的方面と精神的方面との、二つがある事をハッキリ知っておかねばなりません。したがって精神を否定する唯物思想もいけなければ、また物質の価値を全く否定したような唯心思想もいけないわけです。今日、経済を否定した生活は全く不可能であります。生活に即さない理論は空理、空論です。唯物主義も唯心主義も仏教の立場からいえば、いずれもそれは偏見です。つまり心によって、はじめて物の価値が現わされるとともに、物質によって、また精神の価値が、いっそう裏づけられるわけです。廊下に落ちている一枚の紙も、もったいないと感ずる人には、仏法領《ぶっぽうりょう》のものとして、はじめてりっぱにその経済価値が認められるのです。で、問題は、つまり物に対する心構えです。心の持ちようです。要するに、物質を精神より以上に見るか、精神を物質より優位に見るかです。物が心を支配するか、心が物を統御《コントロール》するかです。金を使うか[#「金を使うか」に傍点]、金に使われるか[#「金に使われるか」に傍点]です。けだし正を|履[#「正を|履」は太字]《ふ》み[#「み」は太字]、中を執る[#「中を執る」は太字]ということは、いずれの世、いずれの時にも必要です。人間の正しい生活が[#「人間の正しい生活が」に傍点]、正しい見方によって[#「正しい見方によって」に傍点]、規定せられるかぎり[#「規定せられるかぎり」に傍点]、私どもは何人も[#「私どもは何人も」に傍点]、まず[#「まず」に傍点]「正しい見方」がなんであるかを、ハッキリ知らなくてはなりませぬ。私どもの生活が、たとえ物質的に貧しくとも、せめて私どもは、精神的には富める生活をしたいものです。金持の貧乏人となるか[#「金持の貧乏人となるか」に傍点]、貧乏人の金持となるか[#「貧乏人の金持となるか」に傍点]、結局、問題はその人の心構えの如何《いかん》です。私どもは、少なくとも因縁の真理、縁起の哲学を味わうことによって貧しくとも富める生活[#「貧しくとも富める生活」に傍点]をしたいものです。心にしっかりした拠《よ》り所《どころ》をもって、心に太陽をもって清く、正しく、明るいシッカリした生活を営みたいものです。おもうに、因縁の真理に徹し、般若《はんにゃ》の空を、真に味わい得た人こそ、まさしくそれは中道を歩む人です。げに生身《しょうじん》の活《い》きた観音さまは、かかる人々のうちから誕生するのです。
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第四講 永遠の生命
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舎利子[#(ヨ)]。
是[#(ノ)]諸法[#(ノ)]空相[#(ハ)]。
不生[#(ニシテ)]不滅。
不垢[#(ニシテ)]不浄。
不増[#(ニシテ)]不減[#(ナリ)]。
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 すでに私は『心経』の肝腎要《かんじんかなめ》となっている、いや、仏教の根本思想であるところの「色は即《すなわ》ち是れ空、空は即ち是れ色」(色即是空、空即是色)ということについて、一応お話ししておきました。そしてそのとき私は、一くちに「空」といっても、その空は「般若の空」で、有《う》(存在)に対する無《む》(非存在)というような、そんな、単純[#「単純」に傍点]な空という意味ではない、ということをお話ししておきました。ところが、これについて古人はこういう貴《とうと》い言葉を残しています。
 智慧と慈悲[#「智慧と慈悲」は太字] 「色即[#(チ)]是[#(レ)]空と見れば、大智[#「大智」に傍点]を成《じょう》じ、空即[#(チ)]是[#(レ)]色と見れば、大悲を成ず」
 と、いっておりますが、これは非常に考えさせられる言葉です。というのは、いったいここにいう大智[#「大智」に傍点]とは、大きい智慧《ちえ》、すなわちほんとうの智慧のことです。次に大悲というのは大きい慈悲、すなわちほんとうの慈悲のことです。仏教では、その智慧も慈悲も、共に空という母胎から産まれてくるものだというのです。いったい世間のものは、みんな十人十色で、どれだけ大勢《おおぜい》の人が集まっていても、寸分たがわぬ、同じ人間は、一人もありません。「似たとはおろか瓜《うり》二つ」などといいますが、よく見れば、どこかきっと違っている所があるのです。単に、顔や形のみではなくて、人間の性質も気心も、また文字通り、千差万別です。したがって、病に応ずる薬が、それぞれあるように、人間の身の悩み、心の悶《もだ》えを、救う仏にもまたいろいろ変わった相《すがた》があるわけです。
「釈迦《しゃか》 阿弥陀《あみだ》 地蔵 薬師と変れども 同じ心の仏なりけり」で、結局、数あるもろもろの仏は、ことごとく皆同じ心、すなわち慈悲[#「慈悲」に傍点]という精神、大慈大悲のこころの顕《あらわ》れにほかならぬのであります。ところが、慈悲といっても、それは決して智慧のない慈悲[#「智慧のない慈悲」は太字]ではないのです。仏教では、これを「愛見の大悲」といっておりますが、ほんとうの慈悲は、盲目的な愛、母牛が仔牛《こうし》を甜《な》めるような、そんな愛ではないのです。真の智慧によって、裏づけられているほんとうの愛が、すなわち仏教の慈悲なのです。だから、少なくとも仏教では、慈悲と智慧とは二にして一だというのです。今日、仏といえば、誰しも、すぐに観音さま、地蔵さま、阿弥陀さまといったような、いかにも微妙端厳《みみょうたんごん》な、やさしい容姿《すがた》の仏を思い起こします。しかし、仏さまのうちには、不動明王というような、見るからにいかにも恐ろしい仏もあります。「あれでも仏さまか」と疑うほどの恐ろしいお容貌《すがた》の仏さまがあるのです。もっとも、同じ観音さまでも、やさしい顔や相《すがた》の仏さまだ、とばかり思っていると、中には「馬頭観音」とて、不動明王にも、勝《まさ》るとも劣らぬ、恐ろしい姿をしている観音さまもあります。武蔵野《むさしの》などを散歩していますと、よく路傍の石碑《いし》にきざんである、この仏のおすがたを見うけるのですが、とにかく、仏さまなら、もう阿弥陀|如来《にょらい》だけでよい、大日如来だけでよい、釈迦如来だけでも結構なようですが、衆生の機根万差《きこんまんじゃ》ですから、これを救う方にもいろいろな形をした仏があるわけです。仏教では、三世に亙《わた》り、十方に遍《あまね》く、たくさんの仏さまが、おられると説いているのです。けだし、これは果たしてどんな意味なのでしょうか。
 厳父と慈母[#「厳父と慈母」は太字] いったい、私どもの家庭、それは単純な家庭もあろうし、複雑な家庭もありましょう。ま
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