教の真理として、いな、宇宙の真理として、今日においても儼然《げんぜん》と光っています。いや未来|永劫《えいごう》に、いつまでも「不朽の真理」として、光り輝いてゆくのであります。
ところで、この因縁とはいったいどんなことかというに、くわしくいえば「因縁生起」ということで、つまり、因縁とは、「因」と「縁」と「果」の関係をいった言葉で、因縁のことをまた「縁起」とも申します。すなわち、「因」とは原因のこと、結果に対する直接の力[#「直接の力」に傍点]です。「縁」とは因を扶《たす》けて、結果を生ぜしめる間接の力です[#「間接の力です」に傍点]。たとえばここに「一粒の|籾[#「一粒の|籾」は太字]《もみ》」があるといたします。この場合、籾はすなわち因[#「籾はすなわち因」に傍点]です。この籾をば、机の上においただけでは、いつまでたっても、一粒の籾でしかありません。キリスト教の聖書《バイブル》のうちに、
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一粒の麦、地に落ちて、死なずば、ただ一つにて終わらん。死なば多くの実を生ずべし
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とあるように、一たび、これを土中に蒔《ま》き、それに雨、露、日光、肥料というような、さまざまな縁の力[#「縁の力」に傍点]が加わると、一粒の籾は、秋になって穣々《じょうじょう》たる稲の穂となるのです。これがつまり因、縁、果の関係であります。ですから、花を開き、実を結ぶ、という結果は必ず因[#「因」に傍点]と縁[#「縁」に傍点]との「和合」によってはじめてできるわけです。ところが、私どもは、とかく皮相的の見方に慣れて、すべての事柄を、ことごとく単に原因[#「原因」に傍点]と結果[#「結果」に傍点]の関係において見ようとしているのです。しかし、これはどうかと思います。複雑|極《きわ》まりなき、一切の物事をば、簡単に、原因と結果という形式だけで、解釈しようとすることは、ずいぶん無理な話ではないでしょうか。さて、この因縁によってできた、因縁にかつて生じ来《きた》った、あらゆる事物は、いったいどんな意味があり、どんな性質[#「性質」に傍点]をもっておるかと申しますと、それは実に縦にも、横にも、時間的にも、空間的にも、ことごとく、きっても切れぬ、密接不離な関係にあるのです。ちょっとみるとなんの縁もゆかりもないようですが、ようく調べてみると、いずれも実は皆きわめて縁の深い関係にあるのです。|躓[#「躓」は太字]《つまず》く石も縁のはし[#「はし」に傍点][#「く石も縁のはし[#「はし」に傍点]」は太字]です。袖《そで》ふりあうも他生《たしょう》の縁です。一河の流れ、一樹の蔭《かげ》、みなこれ他生の縁です。だが、それは決して理窟《りくつ》や理論ではありませぬ。考えるからそうだ[#「考えるからそうだ」に傍点]、仏教的にいうからそうだ[#「仏教的にいうからそうだ」に傍点]、というのではありません。考える考えぬの問題ではないのです。仏教的だとか、仏教的でないなどという問題ではないのです。これはほんとうに事実[#「事実」に傍点]なんです。真実なのです。事実は、真実は、何よりも雄弁です。いま私のいる部屋《へや》には、一|箇[#「一|箇」は太字]《こ》の|円[#「の|円」は太字]《まる》い時計[#「い時計」は太字]がかかっています。この時計の表面は、ただ長い針と短い針とが、動いているだけです。しかし、いま、かりに、この時計の裏面を解剖してみるとしたらどうでしょうか。そこには、きわめて精巧、複雑な機械があって、これが互いに結合し、和合して、その表面の針を動かしているのではありませんか。私は現にただ今この東京|鷺宮《さぎのみや》の無窓塾《むそうじゅく》の書斎でペンを動かしています。これはもちろん、簡単な事実[#「簡単な事実」に傍点]です。しかしこの無窓塾がどこにあるかを考え、私、および私の故郷|伊勢《いせ》の国のことなどを考えて、だんだん深く、そして広く考えてゆきますと、終《つい》にはこの一箇の私という存在は、全日本はおろか、全世界のすべてに関係し関聯《かんれん》していることになるのです。かように、一事一物、皆ことごとく関聯していないものはないのです。ただ、私どもがそれを知らないだけのことなのです。しかし知ると知らざるとにかかわらず、一切のものは[#「一切のものは」に傍点]互いに無限の関係《つながり》において存在しているのです。次にまた時間的に申しましても、今日という一日は、決して昨日なしにないのです。明日ときり離して、今日一日だけがあるのではありません。今日は単なる今日でなくて、ライプニッツのいうように、「昨日を背負い[#「昨日を背負い」は太字]、明日を|孕[#「明日を|孕」は太字]《はら》んでいる今日[#「んでいる今日」は太字]」なのです。とにかく私どもの世の中にある一切の事物は、みな孤立し[#「孤立し」に傍点]、固定し[#「固定し」に傍点]、独存し[#「独存し」に傍点]ているのではなくて、実は、縦にも、横にも、無限の相補的関係、もちつ、もたれつの間柄にあるわけです。すなわち無尽の縁起的関係[#「無尽の縁起的関係」に傍点]にあるわけです。したがって現在の私どもお互いは、無限の空間と永遠の時間との交叉《こうさ》点に立っているわけです。
地下鉄道と船喰虫[#「地下鉄道と船喰虫」は太字] 今からちょうど百年ほど前です。ロンドンのテームス河の畔《ほとり》で、一匹の小さい船喰虫《ふなくいむし》が、頻《しき》りに材木をかじっていました。ちょっときくと、それは私どもお互いとは、なんの関係もないようです。しかし一度でも、あの地下鉄を見た人、地下鉄に乗った人ならば、断じて無関係だとはいえませぬ。なんの因縁もないなどとはいえないのです。なぜかというに、いったい地下鉄道の発明者ブルーネルが、テームス河の、河底を掘り得たことは、何に由来しておるのでしょう? 材木をかじる、あの船喰虫にヒントを得たのではありませんか。そして、「人間の力では、とても掘ることができない」とまでいわれた、あのテームス河の河底を、彼は、りっぱに開鑿《かいさく》しておるではありませんか。地下鉄道と船喰虫[#「地下鉄道と船喰虫」に傍点]! なんの因縁もなさそうです。しかし実は、因縁がないどころか、たいへん深い因縁があるのです。おもうに、因縁によってできている一切の事物、五蘊の集合[#「五蘊の集合」に傍点]、物と心の和合によって、成り立っている、私どもの世界には、何一つとして、永遠に、いつまでも[#「いつまでも」に傍点]、そのままに[#「ままに」に傍点]、存在しているものはありません。つねに変化し、流転しつつあるのです。仏陀は「諸行無常」といいました。ヘラクライトスは「|万物流転[#「万物流転」は太字]《バンタ・ライ》」といいました。万物は皆すべて移り変わるものです。何を疑っても、何を否定しても、この事実だけは、何人も否定できない事実です。咲いた桜に、うかれていると、いつのまにやら、世の中は、青葉の世界に変わっています。
一期一会[#「一期一会」は太字] もはや、五月《さつき》の空には、あの勇ましい鯉幟《のぼり》が、新緑の風を孕みつつ、へんぽんと勢いよく大空を泳いでいます。自然の変化、人生の推移、少なくとも、私どもの世界には、永遠に常住なる存在は、一つもありませぬ。一生たった一度、「一|期《ご》一|会《え》」とは、決して茶人の風雅や、さびの気持ではないのです。茶の道は、一期一会の心をもたぬものには、ほんとうに味わわれませんが、人生のことも、やはり同じです。こういう気持をもたぬものには、人生の尊い味わいをつかむことはできません。まことに一切はつねに変化しつつある存在です。だから、たとい存在しているといっても、それは、仮の[#「仮の」に傍点]、一時的の存在でしかありません。仏教では、存在しているものを「有《う》」といっていますが、すべて「仮有《けう》」です。「暫有《ざんう》」です。とにかく、永遠なる存在、つねにある「常有の存在」ではありません。あの花を咲かせた桜も、新しい芽を出させた桜も、やがては、また花を散らす桜です。スッカリ枯れ木のようになってしまう桜です。所詮《しょせん》は、「散る桜[#「散る桜」は太字]、のこる桜も散る桜[#「のこる桜も散る桜」は太字]」です。だが、一たび冬が去り、春が来れば、一陽来復、枯れたとみえた桜の梢《こずえ》には、いつの間にやら再び綺麗《きれい》な美しい花をみせています。かくて年を迎え、年を送りつつ、たとい花そのものには、開落はありましても、桜の木そのものは、依然として一本の桜[#「一本の桜」に傍点]です。
一休と山伏[#「一休と山伏」は太字] ある日のこと、ある山伏《やまぶし》が、一休|和尚《おしょう》に向かって、
「その仏法はいずこにありや」
と、詰問したのです。すると和尚は即座に、
「胸三寸にあり」
と答えました。これを聞いた件《くだん》の山伏、さっそく、懐中せる小刀をとり出し、開き直って、
「しからば、拝見いたそう」
と、つめよったのです。そこは、さすが機智《きち》縦横の一休和尚です、すかさず、一首の和歌をもって、これに答えました。
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としごとにさくや吉野のさくら花|樹《き》をわりてみよ花のありかを
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これには勢いこんでいた山伏も、とうとう参って、その後ついに和尚の弟子になったということです。
空なる状態[#「空なる状態」は太字] まことに、因縁より生ずる一切《すべて》の法《もの》は、ことごとく空です。空なる状態にあるのです。まさしく「樹を割りてみよ、花のありかを」です。雪ふりしきる厳冬《まふゆ》のさ中に、花を尋ねても、花はどこにもありませぬ。これがとりも直さず「色|即《すなわ》ち是れ空」です。しかし、霞たなびく春が訪れると、いつとはなしに、枯れたとみえる桜の梢には、花がニッコリ微笑《ほほえ》んでおります。これがすなわち「空即ち是れ色」です。何事によらず、いつまでもあると思うのも[#「いつまでもあると思うのも」に傍点]、むろん間違いですが[#「むろん間違いですが」に傍点]、また空だといって[#「また空だといって」に傍点]、何物もないと思うのももとより誤りです[#「何物もないと思うのももとより誤りです」に傍点]。いかにも「謎《なぞ》」のような話ですが、有るよう[#「有るよう」に傍点]で[#「有るよう[#「有るよう」に傍点]で」は太字]、なく[#「なく」は太字]、無いようで[#「無いようで」は太字]、ある[#「ある」は太字]、これが世間の実相《すがた》です。うき世のほんとうの相です。だが、決してそれは理窟[#「理窟」に傍点]ではありませぬ。仏教だけの理論ではないのです。それは、いつどこでも誰《だ》れもが、必ず認めねばならぬ、宇宙の真理です。偽りのない現前社会の事実です。まことにその「有《う》」たるや、「空」に異ならざる「有」です。「空」といっても決して「無」ではありません。「有」に異ならざる「空」です。空と有とは、所詮、一枚の紙の裏表です。生きつつ死に[#「生きつつ死に」は太字]、死につつ生き[#「死につつ生き」は太字]ているのが、人生の相です。生じては滅し、滅しては生ずるのが、浮世の姿です。しかし、私どもはとかく、有といえば、有[#「有」に傍点]に囚《とら》われます。空といえば、その空に囚われやすいのです。ゆえに『心経』では、有に囚われ、色[#「色」に傍点]に執着するものに対しては、「色は空に異ならず」、色がそのまま空だというのです。また空に囚われ、虚無に陥るものに対しては、「空は色に異ならず」、「空は即ち是れ色」だといって、これを誡《いまし》めているのです。『心経』の、この一節は、実にすばらしい巧みな表現といわざるを得ないのです。けだしわが大乗仏教の原理は、この一句で、十分に尽きておるといってもよいくらいです。まことに「色即ち是れ空」、「空即ち是れ色」です。
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