刃に臨めば、猶《なお》し春風を|斬[#「春風を|斬」は太字]《き》る[#「る」は太字]が如し」(四大元無[#レ]主。五陰本来空。以[#レ]首臨[#二]白刃[#一]。猶如[#レ]斬[#二]春風[#一]。)
首を以て白刃に臨めば、猶し春風を斬るが如し。ああ、なんという徹底した痛快な死生観ではありませんか。
けだし、かの若き僧肇こそ、まことに般若の経典を心でよみ、かつこれを身体で読んだ人であります。人間もここまで来なければ、決して大丈夫ということはできません。しかし、私はその臨終の偈《げ》が、徹底していることよりも、むしろ獄中に囚われの身でありながら、悠々《ゆうゆう》として『法蔵論』というりっぱな一巻の書物を、書き残していったという所に、学者として、いや仏教の坊さんとしての彼の偉大さ、真面目があると存じます。今日、私どもは、この『法蔵論』を手にするたびに、「般若の空」の真の体験者であった僧肇の偉大さを、しみじみと感ずるのであります。そして三十一歳で、従容として死についた彼を偲《しの》ぶにつけても、般若を学びつつ、般若を説きつつ、しかもいまだ真に般若を[#「般若を」に傍点]行《ぎょう》じ得ない[#「得ない」に傍点]、自分《おのれ》を省みるとき、私は内心まことに忸怩《じくじ》たるものがあるのであります。「道は多い、されど汝《なんじ》の歩むべき道は一つ」だといいます。私は『般若心経』のこの講義を契機《きっかけ》として、真に般若の道を学びつつ、歩みつつ、如実《にょじつ》に一つの道をシッカリと歩んでゆきたいと思っています。そして少なくとも、「生死岸頭に立って大自在を得る」という境地にまで、すみやかに到達したいと念じている次第であります。
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第六講 因縁に目覚める
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無[#(ク)][#二]無明[#(モ)][#一]。
亦無[#(ク)][#二]無明[#(ノ)]尽[#(クルコトモ)][#一]。
乃至無[#(ク)][#二]老死[#(モ)][#一]。
亦無[#(シ)][#二]老死[#(ノ)]尽[#(クルコトモ)][#一]。
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商人の話[#「商人の話」は太字] 昭和九年の春、AKから『般若心経』の放送をしている時でした。近所の八百屋《やおや》さんが宅へ参りまして、家内に、冗談のように、「この頃は毎朝、お宅の先生のラジオ放送で、空《くう》だの、無だのというような話を聞かされているので、損をした日でも、今までと違ってあんまり苦にしなくなりました」といって笑っていたということですが、たとい、空のもつ、ふかい味わいが把《つか》めなくても、せめて「裸にて生まれて来たになに不足」といったような、裸一貫の自分をときおり味わってみることも、また必要かとおもうのであります。その昔幕末のころ、盛んに廃仏棄釈《はいぶつきしゃく》をやった水戸の殿様に、ある禅寺の和尚《おしょう》さんが、
「君は僅《わず》かに是《こ》れ三十五万石、我れは是れ即《すなわ》ち三界|無庵《むあん》の人」
といったという話がありますが、あなたはたった三十五万石[#「たった三十五万石」は太字]だ、私は「三界無庵の人」だといった、その心持には味わうべき貴いものがあるかと存じます。おもうに三界無庵[#「無庵」に傍点]の人こそ、その実、いたるところに家をもつ三界有庵[#「三界有庵」に傍点]の人です。「無一物中無尽蔵」です。そこには、花もあれば、月もあります。私どもは、般若の「空」がもっているほんとうのもち味をかみしめつつ、いたずらにくよくよせずして、ゆったりと落ちついた気分で、お互いの人生を、社会を、広く、深く、味わってゆきたいものです。
さてこれからお話ししようとする所は、
「無明《むみょう》もなく、また無明の尽くることもなく、乃至《ないし》、老死もなく、また老死の尽くることもなし」
という一節であります。すでに私は「仏教の世界観」を契機《きっかけ》として、それによって「一切は空なり」ということをお話ししたのですが、これからは「仏教の人生観[#「仏教の人生観」は太字]」の上から、「一切は空なり」ということをお話しするわけであります。ところで最初の所は、有名な「十二縁」の問題を取り扱っているのですが、『心経』には「十二因縁」の一々の名前はなくて、ただ最初の「無明《むみょう》」と、最後の「老死」とを挙げてあるのみで、その中間は、「乃至」という文字でもって省略してあるのです。そして「無明もなく、無明の尽くることもなく、老死もなく、老死の尽くることもなし」とて、十二因縁の空なることを説いてあるのですが、いったい般若の真空《しんぐう》の上よりいえば、客観的に宇宙の森羅万象《すべてのもの》が空であったがごとく、主観的にも、宇宙の真理を語る所の、智慧《ちえ》そのものもまた空だ、というのが、「無明もない」、「老死もない」ということ、すなわち十二因縁もまた空だというのがそれです。ところで、この「十二因縁」の一々についての、詳しい説明は、かえって煩瑣《はんさ》ですし、またここではその必要を認めませんので省略しておきますが、ただここで、ぜひとも注意すべき大切なことは、「十二」という数字よりも、むしろ「因縁」という二字が大事だということです。すなわち十二という数が、必ずしも特別に重要な位置を占めるものではなくて、「因縁」ということが必要なのです。「因縁」ということ、因縁の内容をば、十二の形式によって説明したものが、この「十二因縁」でありまして、これは結局、「因縁」という一語につきるわけです。したがって、開けば十二、合すれば因縁の一つというわけです。
因縁の体験[#「因縁の体験」は太字] さてこの因縁が、どんなに重要な意味をもっている語《ことば》であるかは、すでに、しばしば反覆《くりかえ》し説いてまいりましたが、要するに、縦から見ても横から見ても[#「縦から見ても横から見ても」に傍点]、内から見ても[#「内から見ても」に傍点]、外から見ても[#「外から見ても」に傍点]、「仏教の根本思想」は、所詮この[#「所詮この」に傍点]「因縁[#「因縁」に傍点]」の二字[#「二字」に傍点]につきるのです。もちつ[#「もちつ」に傍点]、もたれつ[#「もたれつ」に傍点]という「相対|依存《いぞん》」の関係も、万物は移り変わるという「万物流転」の原理も、ことごとくみなこの「因縁」という母胎から生まれてくる真理であることは、すでに述べたとおりです。かかるがゆえに、人間の子釈尊が、仏となったことも、実は、この因縁の自覚にあったのです。しかもこの因縁の法を自覚した釈尊、仏となった釈尊が、その因縁の道理をば、自己の体験を通じて「教え」として説いたものが、すなわち仏教です。したがって仏教は、「仏陀《ぶっだ》の教え」とはいうものの、仏陀は自覚せる人間ですから、所詮、仏教は人間の教えです。神の宗教[#「神の宗教」に傍点]ではなくて、人間の宗教です。天上の宗教ではなくて、地上の宗教です。昔あるクリスチャンが、神さまは天上にいられると思って、ある日のこと、高い塔の上に登って、「神さまア、神さまア」と、大声で叫びました。すると不思議にも「オーイ」という神さまのお声が聞こえてきたのです。「さては天上に神さまがいられる」と思いつつ、彼はなおもよく耳をすましていると、豈《あ》に図《はか》らんや、神の声は高い天上ではなくて[#「神の声は高い天上ではなくて」は太字]、低い地上から聞こえてきたのです[#「低い地上から聞こえてきたのです」は太字]。しかも多くの人たちが群集《ぐんしゅう》し、雑沓《ざっとう》している中から神の声は聞こえてきたのです。もちろんそれは一つの寓話《ファブル》でしかありません。しかしです。神の声はあった、だが、その声は、高い天上にはなくて、低い地上にあった。しかも、多くの人々の雑沓している、その群集の中にあったということは、そこに、ふかき「何物か《エトワス》」を物語っていると存じます。キリストは「天国を地上」にといっています。少なくともほんとうの宗教は、神の宗教ではなくて、人間の宗教です。天上の宗教ではなくて、地上の宗教でなければなりません。まことに、宗教のアルファもオメガアも、始めも、終わりも、結局は人間です。「迷える人間」より「悟れる人間」へ、「眠れる人間」より「目覚めた人間へ」、そこに宗教の眼目があるのです。けだし「仏法|遥《はるか》にあらず」です。「心中にして即《すなわ》ち近し」です。「真如《しんにょ》外《ほか》に非《あら》ず」です。「身を捨て何処《いずこ》にか求めん」です。少なくとも、私ども人間の生活を無視して、どこに宗教がありましょうか。「なにゆえに宗教が必要なのだ」という質問は、つまりなにゆえに、「われらは生きねばならぬか[#「われらは生きねばならぬか」は太字]」という質問と同一です。宗教の必要を認めない人は、人間として生きる権利を抛棄《ほうき》した人です。人間としての、尊き矜持《ほこり》は「生きる」ということを、考えるところにあるのです。しかも、一度でも「いかに生くべきか」ということを、真剣に考えたとき、それはもはやすでに「宗教の世界」にタッチしているのです。宗教に入っているのです。いや、宗教を離れては、どうしても「生きる」ということのほんとうの意味を、把《つか》むことはできないのです。
惑と業と苦の連鎖[#「惑と業と苦の連鎖」は太字] 話がつい横道にそれました。さてこの十二因縁ということですが、これについては、昔からいろいろとめんどうな、むずかしい議論もありますが、こういったらよいかと存じます。いったい、仏教では、私どもの生活は、この現在の一世だけではなく、過去と、現在と、未来との三世に亙《わた》って、持続するというのです。「三|世《ぜ》輪廻《りんね》」というのはそれです。ところがその生活の過程は、結局、惑と、業《ごう》と、苦の関係だというのです。いわゆる「惑業苦の三道」というのはそれです。いうまでもなく惑とは、「迷惑」と熟するその惑で、無明、すなわち無知です。智慧《ちえ》が病にかかっている愚痴です。ものの道理をハッキリ知らないから、惑が起こるのです。無知の迷いが生ずるのです。下世話に「一杯、人、酒をのみ、二杯、酒、酒をのみ、三杯、酒、人を飲む」と申しますが、飲み友だちをもった人には、この辺の呼吸がよくおわかりでしょうが、飲酒の害をよく知りつつも、「憂いを払う玉箒《たまぼうき》」などと、酒杯《さかずき》を手にします。一杯やりますと、もうたまりません。陶然とした気持になって、飲酒の害も、どこへやらふっ飛んでしまって、酒のいけない人を、かえって馬鹿《ばか》にするようになります。「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡《こくすい》は覚者を嘲《あざけ》る」と弘法大師もいっていられますが、狂酔の人からみると、酒をのまぬ連中がかえって馬鹿に見えるのです。しかし、それは所詮、酒飲みの錯覚です。いうところの「惑」です。だが、メートルが上がると、もうたまりません。一たび、この「惑」が生ずると、酒、酒を飲むようになって、それこそだらしないことをしでかすのです。それが所詮「業《ごう》」です。はては、他人さまにも迷惑をかけ、自己《おのれ》も苦しむのです。経済上の苦しみはいうまでもありません。身体も精神《こころ》も、苦しめるようになるのです。これがいわゆる「苦」です。三杯、酒、人を飲むというようになると、もう恥も外聞もありません。だが、いったん酔いがさめると、それこそしみじみと酒の害毒を痛感します。もう再び酒杯などは手にすまいとまで思います。しかし、それもほんの束《つか》の間です。アルコール中毒に罹《かか》ったものは、また何かの機会に杯を手にします。そして飲んだが最後、またいろいろと、だらしのないことをしでかしたすえは、やっぱり自分で自分を苦しめているのです。かくて飲酒家は、断然、禁酒しないかぎり一生いつまでも同じことを、何遍もくり返しているの
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