》」とか「真言《しんごん》」とか「陀羅尼《だらに》」などというものは、いわゆる「一字に千理を含む[#「一字に千理を含む」は太字]」で、たった一字の中にさえ、実に無量無辺の深い意味が含まれているのですから、古来より梵語を強《し》いて翻訳せずして、陀羅尼は、陀羅尼のままに、真言は、真言のままに、呪は、呪のままによみ伝えてきたのです。すなわち陀羅尼にしても、呪にしても、真言にしても、それは神聖にして犯すべからざる仏の言葉であるのと、それにはきわめて深遠な意味が含まれているという所から、梵語の音を、そのままにこれを漢字に写すだけで、わざと翻訳しなかったわけです。したがって昔から、一般にこの般若の四句の呪文[#「四句の呪文」に傍点]は、何がなしに、ありがたい功徳があるというので、そのまま翻訳せずに、信じ且つ誦《とな》えていたのです。しかし人間というものは妙なもので、いえないものを、いってみよ、というのが人間の癖[#「人間の癖」は太字]です。とかく、見るな、というものほど、見たいものです。聞くな、といわれるほど、よけいに聞きたいものです。いや、するな[#「するな」に傍点]といえば、よけいにやってみたい[#「やってみたい」に傍点]のが人情です。で、般若の真言も、そのわけは知らなくてもよい、ただそのまま唱えていれば功徳があるのだ、利益《りやく》があるのだ、といった所でなかなか人間は承知しないのです。「いったいそれはどういう意味なのだ」「わけがわからないものを、むやみにありがたいといって、誦えることはできないではないか」というのです。むろん、それはまことに、一応無理もない話です。いったい人間は[#「人間は」は太字]「考える動物[#「考える動物」は太字]」です。ギリシア語のアントローポスにしたところで、梵語のマヌシャにしたところで、それはいずれも人間という事ですが、その意味は「考えるもの」ということです。思い、考えるものが人間です。この意味において、あのパスカルが「人間は考える|蘆[#「人間は考える|蘆」は太字]《あし》」だといったことばは、非常に面白い、いや、趣があると存じます。全く人間は、あの水際に生えている蘆のように弱いものです。肉体はわずか一滴の水、一発の弾丸《たま》にでも、容易に斃《たお》れる、きわめてか弱いものです。しかしたとい、全世界が武装してかかっても、人間の中から「考える」という心を奪う事はできないのです。「人間は考える蘆」とは味わうべき、意味ふかい語《ことば》であります。よく考えるか、悪く考えるか、シッカリよく考えるか、よい加減に考えるか、はともかく、人間である以上、それはなにか[#「それはなにか」に傍点]、それはどういうわけで[#「それはどういうわけで」に傍点]、それはどうして[#「それはどうして」に傍点]、などと考えることはむしろ当然です。ではいったいこの般若の四句の|呪文[#「般若の四句の|呪文」は太字]《じゅもん》は、どんな意味をもった言葉かと申しまするに、最前も申し上げたごとく、これは梵語の音をそのまま写したものです。原語でいうと「ガテイ、ガテイ、パーラガテイ、パーラサンガテイ、ボージ、スバーハー」というのです。ところでいま、かりにそれをしいて翻訳してみると、最初の「|掲諦[#「掲諦」は太字]《ぎゃてい》」とはつまり「往《ゆ》くことに於いて」という意味です。だから、「掲諦、掲諦」と重ねていえば、それは「往くことにおいて、往くことにおいて」という意味です。ではいったい、「どこへ行くか[#「どこへ行くか」は太字]」というと、そのつぎの「波羅掲諦《はらぎゃてい》」という語がそれを表わしています。すなわち、「向こうへ往く」ことなのです。ところで、「向こうへ往く」ということは、どんな意味かというと、それは、彼岸の世界へ行く[#「彼岸の世界へ行く」は太字]ことなのです。迷いの此岸[#「此岸」に傍点]から、悟りの彼岸[#「彼岸」に傍点]へ行くことです。つまり、凡夫の世界から、仏の世界へ行くことなのです。弘法大師はこれを「行々《ぎょうぎょう》として円寂《えんじゃく》に入る」と訳しています。次に「波羅僧掲諦《はらそうぎゃてい》」というのは、「波羅《はら》」は向こうという意味、「僧掲諦」とは到達する、結びつく、いっしょになる、というような意味です。したがって「波羅僧掲諦」ということは、凡夫が仏の世界へ到達して、仏といっしょになるということ[#「仏といっしょになるということ」は太字]です。次に「菩提薩婆訶《ぼじそわか》」という事ですが、菩提は菩提《ぼだい》すなわち悟《さと》りのことです。「薩婆訶」は、速疾《そくしつ》とか、成就《じょうじゅ》とか、満足というような意味で、どの真言の終わりにも、たいていついている語《ことば》です。
以上ひと通り、この真言の意味を解釈しましたが、要するに『心経』の最後にある、この「掲諦掲諦」の四句の真言は、こういう風に解釈すればよいかと思います。
「自分も悟りの彼岸へ行った。人もまた悟りの彼岸へ行かしめた。普《あまね》く一切の人々をみな行かしめ終わった。かくてわが覚《さとり》の道は成就された」
すなわち一言にしてこれをいえば、「自覚、覚他、覚行円満」ということです。すなわち「自ら覚《さと》り、他を覚《さと》らしめ、覚《さとり》の行《ぎょう》が完成した」ということで、それはつまり仏道の完成であります。しかもその仏道の完成こそ、まさしく人間道の完成[#「人間道の完成」に傍点]であります。したがってこの四句の呪文は、単に『心経』一部の骨目《こつもく》、真髄《しんずい》であるのみならず、実に、八万四千の法門、五千七百余巻の、一切の経典の真髄であり、本質であるわけです。換言すれば、大小、顕密、聖道浄土《しょうどうじょうど》、仏教の一切の宗旨の教義、信条は、皆ことごとくこの四句の真言の中に含まれているのです。で、つまり、この真言の意味をば、いろいろの角度から、いろいろの立場から、機に応じ、時に臨みて、これを説き示したのが、今日の日本の仏教、すなわち十三宗五十八派の建前であるわけです。というのは、いうまでもなく大乗仏教の精神[#「大乗仏教の精神」は太字]は、われらと衆生と皆共に仏道を成《じょう》ぜんということです。同じく菩提心を発《おこ》して浄土へ往生することです。したがって、それは決して自己独りの往生[#「自己独りの往生」に傍点]ではないのです。あくまで皆共[#「皆共」に傍点]にです。同じく菩提心[#「同じく菩提心」に傍点]を発《おこ》すことです。私どもは、この真言の意味を理解することによって、はじめていっそう明瞭に『心経』が、どんな貴い経典であるか、いや、大乗仏教の眼目はどこにあるかを、ハッキリ知ることができるのです。あの弘法大師が、
「真言は不思議なり[#「真言は不思議なり」は太字]。観誦《かんじゅ》すれば無明《むみょう》を除く。一字に千理を含み、即身に法如《ほうにょ》を証す」
といわれたのはそれです。般若の真言こそ、まことに不思議です。これを誦《とな》えただけでも無明の煩悩《まよい》をとり除いて、悟《さと》りを開くことができるのです。「即身《そくしん》に法如《ほうにょ》を証す」とは、そのままに、すみやかに、成仏するという意味です。ただし、漢訳のお経は、これでおしまいになっておりますが、梵語の原典にはこの真言の次に、「イテイ、プラジュニャー、パーラミター、フリダヤム、サマープタム」という語《ことば》があります。ところで、これを翻訳すると、こういう意味になるのです。「といいて、般若波羅蜜多心経《はんにゃはらみたしんぎょう》を説き終われり」というのです。しかしこの語はあってもなくても、同じことですから、玄奘《げんじょう》三蔵は、わざとこれを省略せられて、ただ最後に「般若心経」という語だけを、つけ加えられたのであります。
以上はなはだ拙《つたな》い講義ではありましたが、十二講にわたってだいたい一通り、「心経とはどんなお経か」「心経にはどんなことが書いてあるか」「心経はなにゆえ、天下一の経典であるか」というようなことを、ざっとお話ししたわけですが、最も深遠なこのお経を、私ごとき浅学|菲才《ひさい》の者が講義するのですから、とうてい皆さまの御満足を得ることができなかったことは、私自身も十分に承知しておりますし、また貴いこの『心経』の価値を、あるいはかえって冒涜《ぼうとく》したのではないかとも怖《おそ》れている次第であります。古来、仏教では「法を|猥[#「法を|猥」は太字]《みだ》りに|冒[#「りに|冒」は太字]《おか》したものは[#「したものは」は太字]、その罪[#「その罪」は太字]、死に値す[#「死に値す」は太字]」とまで誡《いまし》めておりますが、この意味において、私もおそらく、死に値する一人でありましょう。地獄へ落ちてゆく衆生の一人でありましょう。しかし、私はそれで満足です。
仏教への門[#「仏教への門」は太字] いったい古人もしばしばいっているように、仏教への門は、所詮《しょせん》「信」であります。信ずる心です。しかも信とは、愛し敬うこころです。仏教を愛し、敬い、これを信ずる心がなくては、とうてい、仏教をほんとうに知る[#「知る」に傍点]ことはできないのです。合掌する心持、|南無[#「南無」は太字]《なむ》する心[#「する心」は太字]、それはいずれも信心のしるしです。信仰の象徴です。南無とは、決して南《みなみ》無《な》しではありません。
坊さんがお経を読む時に、唱える枕詞《まくらことば》でもありません。南無とは、実に帰依することです。帰|命《みょう》の精神です。相手を絶対に愛し敬い、信頼することです。しかもその南無[#「南無」に傍点]の心を形によって示したものが、「合掌[#「合掌」は太字]」です。拝むことです。「右仏左は我と拝む手の、うちぞゆかしき南無の一声」と古人は教えています。両手を合わす右の手は仏陀《ほとけ》の世界です。左の手こそ、衆生の自分です。かくて、この両手を合わし、南無の精神に生きる所に、はじめて、私どもは、ほんとうに仏我れにあり[#「仏我れにあり」に傍点]、我れに仏あり[#「我れに仏あり」に傍点]、との安心《あんじん》を得ることができるのです。いくらラジオの放送はあっても、これを聴く機械を持たない人には、ないと等しいのです。しかもたとい聴く機械があっても、スイッチを入れておかなくては、機械がないと同じです。常恆《じょうご》不断に、絶えず放送しておられる、仏の説法も、「合掌」と言う機械があり、「南無」という電流を通じてこそ、はじめて、はっきりと聞くことができるのです。にもかかわらず、とかく私たちは、どういうものか、ひたすら科学的立場から、ものを見ることになれて、ただ、聞こえないから[#「聞こえないから」に傍点]、ない[#「ない」に傍点]、見えないから、ないとすぐに判断してしまうのです。しかし、ものが見えない[#「見えない」に傍点]から、ないのではありません。見ない[#「見ない」に傍点]から[#「見ない[#「見ない」に傍点]から」は太字]、ない[#「ない」は太字]ように思うのです。聞こえない[#「聞こえない」に傍点]から、ないのではなくて、聞かないから、ないと思うのです。見ようとしないもの、聞こうとしないものには、何事もないと同様です。
いったい機縁というか、契機というか、機会《チャンス》というか、とにかく「縁」というものは不思議なものです。「縁なき衆生は度し難い」などと、昔からいっていますが、縁のないものには、如何《いかん》ともし難いのです。西洋の諺《ことわざ》にも、「機会《チャンス》は前の方には毛があるが、後には毛がない。機会《チャンス》が来た時、捕えればよいが、一度とり逃がしたら最後、脚《あし》の早いあのジュピターの神でさえ、捕えることができない」といっております。全くその通りです。私どもには、機会の来るのを待つ[#「機会の来るのを待つ」は太字]、時節[#「時節」に傍点]
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