ようなものでは、断じてないのです。それこそ神聖なる真言の教えを冒涜《ぼうとく》する、獅子身中の虫といわざるを得ないのです。しかし、いったいこの「呪《じゅ》」という字は、気のせい[#「せい」に傍点]か、眼でみるとその恰好《かっこう》からしてあまり感じのよくない字です。世間では「呪」というと、ただちに迷信を聯想《れんそう》するほど、とかく敬遠されている語《ことば》です。けれどもこれが一たび仏教の専門語として、用いられる時には、きわめて深遠な尊い意味をもってくるのです。めんどうなむずかしい学問的な詮索《せんさく》は別として、この「呪[#「呪」は太字]」という字[#「という字」は太字]は、梵語の曼怛羅《マントラ》という字を翻訳したものです。したがってそれは、真言または陀羅尼《だらに》などという語《ことば》と、同様な意味をもっているのです。いうまでもなく、真言とは[#「真言とは」は太字]、「まことの言葉[#「まことの言葉」は太字]」です。まことの言葉は、神聖にして、犯すべからざる語です。私たち凡夫《ぼんぷ》の語には、うそいつわりが多いが、仏の言葉には、決してうそいつわりはありません。「世間虚仮《せけんこけ》、唯仏是真《ゆいぶつぜしん》」と聖徳太子は仰せられたといいますが、全くその通りで、凡夫の世界はいつわりの多い世界です。私どもは平生よく「うそも方便だ」ナンテ平気で、うそいつわりをいい、ヒドイのは「うそが、方便だ」と考えている人があります。が、凡夫の言葉は、「真言」ではなくて「虚言」です。この虚言すなわちうそ偽りについてこんな話があります。それはかの無窓国師《むそうこくし》の話です。国師は足利尊氏《あしかがたかうじ》を発心《ほっしん》せしめた有名な人ですが、この無窓国師は「|長寿[#「長寿」は太字]《ながいき》の|秘訣[#「の|秘訣」は太字]《ひけつ》」すなわち長生の方法について、こんな事をいっています。
「人は長生きせんと思えば、嘘《うそ》をいうべからず。嘘は心をつかいて、少しの事にも心を労《ついや》せり。人は心気だに労せざれば、命ながき事、疑うべからず」
 といって、さらに、
「無病第一の利[#「利」に傍点]、知足第一の富[#「富」に傍点]、善友第一の親[#「親」に傍点]、涅槃《ねはん》第一の楽[#「楽」に傍点]」
 といっておりますが、真理は平凡だといわれるように、たしかにこれは真理のことばです。
 まことに無窓国師のいわれる通り、仏の言葉には、嘘がないから、仏は長寿《ながいき》の人です。不死の人です。いわゆる無限の生命を保てる、無量寿《むりょうじゅ》であるわけです。次に|陀羅尼[#「陀羅尼」は太字]《だらに》という|語[#「という|語」は太字]《ことば》ですが、これもまた梵語で、翻訳すれば「惣持《そうじ》」、総《す》べてを持つということで、あの鶴見《つるみ》の惣持寺《そうじじ》の惣持[#「惣持」に傍点]です。で、陀羅尼とは、つまりあらゆる経典《おきょう》のエッセンスで、一字に無量の義を総《す》べ、一切の功徳《くどく》をことごとく持っているという意味です。世間の売薬に「|陀羅助[#「陀羅助」は太字]《だらすけ》」というにがい薬があります。これはたいへん古い薬で、私ども子供のころ、腹痛の時には、よくこの薬を服《の》まされたものですが、これはくわしくはダラニスケ(陀羅尼助)で、この薬は万病によく利《き》くという所から、梵語の陀羅尼を、そのままそっくり「薬の名」としたのだろうと思います。ただし、陀羅尼助の助が、どんな意味であるか、私にはわかりませんが、おそらくこの薬をのめば助かる、という意味でつけたものだろうと思います。要するに、厳密にいえばマントラとダラニとは、多少意味が異なっていますが、結局は、真言[#「真言」に傍点]も陀羅尼[#「陀羅尼」に傍点]も呪[#「呪」に傍点]ということも、だいたい同じでありまして、神聖なる仏の言葉、その言葉の中には、実に無量の功徳が含まれているというのであります。仏教特に真言密教では、非常にこの呪を尊重していますが、いったい真言宗という宗旨は、法身《ほとけ》の真言《ことば》に基礎をおいているので、日本の密教のことを、真言宗というのです。弘法大師は、「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み[#「一字に千理を含み」に傍点]、即身に法如を証す」(秘鍵《ひけん》)といっておられますが、これによって呪の意味をご理解願いたいと存じます。ところで、この「呪」についてこんな話があります。それはちょっと聞くと、いかにも、陳腐《ちんぷ》な話ですが、味わってみるとなかなかふかい味のある話です。
 阿弥陀さまは留守[#「阿弥陀さまは留守」は太字] ある日のことです。有名な白隠禅師がお寺で提唱していたときのこと、その聴衆の中に、一人の念仏信者のお爺《じい》さんがありました。禅師の話を聞きつつ、しきりに小声で、お念仏を唱えていました。禅師は提唱を終わってから、その老人を自分の居間に呼んで、試みに念仏の功徳を尋ねてみたのです。
「いったいお念仏はなんの呪《まじな》いになるか」
 と問うたのです。その時に老人の答えが面白いのです。
「禅師、これは凡夫《ぼんぷ》が如来《ほとけ》になる呪《まじな》いです」
 というのです。そこで白隠は、
「その呪いはいったい誰が作られたか、阿弥陀《あみだ》さまはどこにおられる仏さまか。いまでも阿弥陀さまは極楽にござるかの」
 といって、いろいろと念仏信者の老人を試《ため》したのです。すると老人の答えが実に振るっているのです。
「禅師さま、阿弥陀さまは、いまお留守です」
 と、こういったのです。阿弥陀さまはいま極楽にいないという答えです。留守だという不思議な答えを聞いた白隠は、さらに、
「しからばどこへ行ってござるか」
 と追及しました。その時老人は、
「衆生済度《しゅじょうさいど》のために、諸国を行脚《あんぎゃ》せられています」
 と答えました。そこで禅師は、
「では今ごろはどこまで来てござるか」
 と尋ねた時に、その老人は静かにこういいました。
「禅師さま、阿弥陀さまは、ただ今ここにおいでです」
 といって、老人はおもむろに自分の胸に手をあてたのでした。これにはさすがの白隠もスッカリ感心したという話が伝わっています。果たしてこれが、事実であったかどうか、詮索《せんさく》の余地もありましょうが、自力教の極端である禅宗と、他力教の極端である真宗とは、たといその説明方法においてこそ、異なりはあっても、結局はいずれも大乗仏教である以上、
「仏[#「仏」は太字]、我れにあり[#「我れにあり」は太字]」
 という安心においては、なんの異なりもないのです。

[#ここから2字下げ]
南無《なむ》といえば阿弥陀来にけり一つ身をわれとやいわん仏とやいわん
[#ここで字下げ終わり]

 です。念仏によるか、坐禅《ざぜん》によるか、信心《しんじん》によるか、公案(坐禅)によるか、その行く道程《みち》は違っていても、到着すべきゴールは一つです。

[#ここから2字下げ]
|宗論[#「宗論」は太字]《しゅうろん》はどちら負けても|釈迦[#「はどちら負けても|釈迦」は太字]《しゃか》の恥[#「の恥」は太字]
[#ここで字下げ終わり]

 と川柳子も諷刺《ふうし》しておりますが、いたずらに私どもは、自力だ、他力だ、などという「宗論」の諍《あらそ》いに、貴重な時間を浪費せずして、どこまでも自分に縁のある教えによって、その教えのままに、真剣に、その教えを実践すべきだと思います。目ざす理想の天地は、結局|般若《はんにゃ》の世界です。般若への道には、むろんいろいろありますが、目的地は結局一つです。「般若は三世の諸仏を産み、三世の諸仏は般若を説く」と、古人はいっておりますが、「仏に成る」という仏教の理想は、つまり般若の世界に到達すること[#「般若の世界に到達すること」に傍点]です。ところで、この『心経』の本文には、「是れ大|神呪《じんしゅ》、是れ大|明呪《みょうしゅ》、是れ無上呪《むじょうしゅ》、是れ無等等呪《むとうどうしゅ》」といって、四種の[#「四種の」は太字]「呪[#「呪」は太字]」が挙《あ》げてありますが、要するに、これは般若波羅蜜多《はんにゃはらみた》は、最も勝《すぐ》れた仏の真言だ、ということをいったものです。つまりこの般若波羅蜜多が、そのまま陀羅尼《だらに》なのです。真言《しんごん》なのです。呪《じゅ》なのです。で、この般若の功徳を四通りに説明し、讃嘆したのが、ここにあるこの四種の呪です。さてまず第一に、「是れ大神呪なり」とは、神とは霊妙不可思議という意味ですから、これ大神呪なりということは、われら人間の浅薄な知識では、容易に測り知ることのできぬ、霊妙不可思議なる仏のことばだということです。次に「是れ大明呪なり」とは、明とは、光明の明ですから、この般若の真言こそ永遠に光り輝く、仏の神聖なることばだということです。次に「是れ無上呪なり」とは、この上もない最上の呪文《じゅもん》だということです。次に「是れ無等等呪なり」とは、とうてい何物にも比較することのできない、勝れた呪文だということです。
 要するに、この四種の「呪」は、般若波羅蜜多は、この世において[#「この世において」に傍点]、最も勝れたる[#「最も勝れたる」に傍点]、何物にも比較することのできない[#「何物にも比較することのできない」に傍点]、不可思議なる功徳をもつ所の真言であって[#「不可思議なる功徳をもつ所の真言であって」に傍点]、この中には一切の仏の説かれた教えが[#「この中には一切の仏の説かれた教えが」に傍点]、ことごとく含まれている[#「ことごとく含まれている」に傍点]、ということをいったものであります。ところで弘法大師はこの呪文をば、声聞《しょうもん》と縁覚《えんがく》と菩薩と仏の真言として四通りに配釈しておりますが、声聞[#「声聞」に傍点]と縁覚[#「縁覚」に傍点]とは小乗、菩薩[#「菩薩」に傍点]と仏[#「仏」に傍点]とは大乗(第一講を見よ)でありますから、結局大小乗一切の仏教は、ことごとくこの「般若波羅蜜多」という一つの呪[#「一つの呪」に傍点]に摂《おさ》まってしまうわけです。ゆえに今日わが国には、十三|宗《しゅう》、五十数派、いろいろの宗旨や宗派もありますが、それがいずれも仏教である以上、つまりいろいろの角度からいろいろの方面から、この「般若の呪」を説明し、解説したものということができるのであります。したがって、われらにして、もしもほんとうに観自在菩薩のように、般若の智慧を磨いて、如実《にょじつ》にこれを実践し、実行するならば、自己の苦しみはいうまでもなく、他人の一切の苦しみをも、よく除きうるのでありまして、それを『心経』に、「能《よ》く一切の苦を除く、真実にして|虚[#「真実にして|虚」は太字]《むなし》からず[#「からず」は太字]」といってあるのです。全く真実|不虚《ふこ》です。嘘《うそ》だといって疑う方がわるいのです。真理だ、ほんとうに疑うべからざる真理だとして、ただ信じ、これを実行すればよいのです。けだし「般若波羅蜜多」という事は、屡次《るじ》申し上げたごとく、彼岸へ渡るべき智慧の意味であり、同時にそれは迷いのこの岸から、悟りの彼岸へ渡った、仏のもっている智慧であります。しかもその智慧は、一切は因縁[#「因縁」に傍点]だと覚《さと》る所の智慧ですから、結局、因縁という二字を知るのが、この般若の智慧です。かつて、釈迦は「因縁」の真理に目醒《めざ》めることによって、覚れる仏陀《ほとけ》になったのです。したがって、私どももまた、この因縁の真理をほんとうに知ることによって、何人も仏になりうるのです。しかも因縁を知ったものは、因縁を殺す[#「殺す」に傍点]ものではなくて、因縁をほんとうに生かす[#「生かす」に傍点]人です。しかもその因縁を|活[#「因縁を|活」は太字]《い》かす人[#「かす人」は太字]こそ、はじめて一切|
前へ 次へ
全27ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高神 覚昇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング