間の一生」は太字] あの『青い鳥』という名高い本を書きましたメーテルリンクは、『空間の一生』という短篇のなかで、こんなことをいっております。
「人間の一生は、つまり一巻の書物だ。毎日私どもは、その書物の一ページを必ず書いておる。あるものは、喜びの笑いで書き、あるものは、また悲しみの涙で書いている。とにかく、人間はどんな人でも、何かわからぬが、毎日、一ページずつ書いているんだ。しかし、その日その日の、一ページずつが集まって、結局、貴《とうと》い人生の書物になるんだ。ただし、その書物の最後の奥付は墓石だ」
 というような事を書いております。私どもは人生を橋渡り[#「人生を橋渡り」に傍点]に喩《たと》えた、アジソンの『ミルザの幻影』と思い較《くら》べて、この人生の譬喩《たとえ》を非常に意味ふかく感じます。
 人生の書物に再版はない[#「人生の書物に再版はない」は太字] 人生は一巻の書物! たしかにそれはほんとうでしょう。私どもがお互いにペンや筆で書いた書物には、「再版」ということがあります。しかし人生の書物には、決して再版ということはありませぬ。有名な戯曲家チェホフもいっています。「人生が二度とくりかえされるものなら、一度は手習い、一度は清書」といっていますが、習字のお稽古《けいこ》だったら、それも可能でしょう。だが、人生は手習いと清書とをわけてやることはできません。手習いがそのまま清書であり、清書がそのまま手習いです。したがってほんとうの書物ではミスプリントがあれば、すなわち誤植があれば、ここが間違っていた、あすこが違っていたというので、後から「正誤表」をつけたり、訂正したりすることができますが、「人生の書物」は、それができないのです。誤植は誤植のまま、誤りはあやまりのままで、永遠に残されてゆくのです。後になって、ああもしておけばよかった、こうもしておけばよかったと後悔しても、すべては皆後の祭りです。ロングフェローが、
「いたずらに過去を悔やむこと勿《なか》れ。甘き未来に望みをかけるな。生きよ、励めよ、この現在に」
 といっているのは、たしかにそれです。かの蓮如上人《れんにょしょうにん》が、
「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候。仏法のことは急げ急げ」
 といっているのは、たしかに面白い語《ことば》です。しかし「明日と申すことあるまじく候[#「明日と申すことあるまじく候」は太字]」というのは、なにも独り仏法にのみ限ったことではないのです。でき得べくんば、私どもが人生の書物を書く場合にも、この心持で、なるべく誤植のないように、後から訂正をしなくてもすむように、書いてゆきたいものです。少なくとも「汗」と「膏《あぶら》」の労働によって、勤労によって、一ページずつを、毎日元気に、朗らかな気持で、書いてゆきたいものです。まことに人生のほんとうの喜び楽しみは、断じて、あくことなき所有慾や物質慾によって充《み》たされるものではありません。人生創造の愉快な進軍ラッパ[#「人生創造の愉快な進軍ラッパ」は太字]は、放縦《ほうじゅう》なる享楽の生活に打ち勝って、地味な、真面目《まじめ》な「勤労」に従事することによってのみ、高く、そして勇ましく、吹き鳴らされるのではありませんか。
 おもうに、人生を「橋渡り」に、あるいは「一巻の書物」に譬《たと》えることも、きわめて巧みな譬喩《ひゆ》ではありますが、結局、なんといっても私ども人間の一生は旅行です[#「人間の一生は旅行です」は太字]。生まれ落ちてから、死ぬまでの一生は、一つの旅路です。しかし、その旅は、「名物をくうが無筆の道中記」でよいものでしょうか。私どもは二度とないこの尊い人生を、物見遊山の旅路と心得て、果たしてそれでよいものでしょうか。私どもの人生は、断じて「盥《たらい》よりたらいに移る五十年」であってはなりません。
 東海道中膝栗毛のこと[#「東海道中膝栗毛のこと」は太字] 十|遍舎《ぺんしゃ》一九の書いた『東海道中|膝栗毛《ひざくりげ》』という書物をご存じでしょう。弥次郎兵衛《やじろべえ》、喜多八の旅行ものがたりです。旅の恥はかきすて、浮世は三分五厘と、人生を茶化して渡る、彼らの馬鹿気《ナンセンス》な行動を読んだ時、全く私どもはふき出さず[#「ふき出さず」に傍点]にはおられません。彼らは、お江戸日本橋をふり出してから、京の都へ落ちつくまで、東海道の五十三|次《つぎ》、どの宿でも、どこの宿場でも、ほんとうに失敗《しくじり》のし通しです。人を馬鹿にしたようなあの茶目ぶり、読んで面白いには相違ありませんが、しかしなんだか嬲《なぶ》られているようで、寂しい感じも起こるのです。「とかく浮世は色と慾[#「とかく浮世は色と慾」は太字]」といったような人生観が、あまりにも露骨に描かれているので、人間の浅ましさ[#「浅ましさ」に傍点]が、まざまざ感じられて、厭《いや》な気にもなるのです。道中膝栗毛だからまだよいが、これがもしも私どもの人生の旅路だとしたなら、果たしてどんなものでしょうか。どうせ長くない命だ。勝手に、したい放題なことをして、世を渡るという、そんな不真面目な人生観は、極力排撃せねばならぬのです。いったい私どもの人生は誰でもみんな、ある一つの「使命」を帯びている旅なのです。ひょっこりこの世に生まれ出て、ボンヤリ人生を暮らしてゆくべきではないのです。しかし、世の中には人間の一生道中を、用事を帯びているとも知らず、ただうかうかと暮らしてゆくものが、案外に多いのです。果たしてそれでよいものでしょうか。「うかうかと暮らすようでも瓢箪《ひょうたん》の、胸のあたりにしめくくりあり」とも申しています。私には私だけの用事があるのです。人間多しといえども、私以外にいま一人の私はいないのです。私は私より偉くもないが[#「私は私より偉くもないが」に傍点]、また私よりつまらぬ人間でもない[#「また私よりつまらぬ人間でもない」に傍点]のです。
 所詮、私は私です。私の用事は、この私が自分でやらねばなりません。私以外に、誰がこの私の仕事をやってくれるものがありましょう? だから、私どもは、なにも他人の仕事を羨《うらや》む必要はないのです。他人は他人です。私は私の|本分[#「私は私の|本分」は太字]《つとめ》を尽くす[#「を尽くす」は太字]うちに、満足を見出してゆくべきです。したがって、私たちは、決して自分《おのれ》の使命を他人に誇るべきではありません。靴屋《くつや》が靴を作り、桶屋《おけや》が桶を作るように、黙って自分の仕事を、忠実にやってゆけばよいのです。だが、私どもの人生の旅路は、坦々《たんたん》たるアスファルトの鋪道ではありません。山あり、川あり、谷あり、沼ありです。

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越えなばと思いし峯に来てみればなおゆくさきは山路なりけり
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 です。「人間万事|塞翁[#「人間万事|塞翁」は太字]《さいおう》が馬[#「が馬」は太字]」です。よいことがあったかと思うと、その蔭《かげ》にはもう不幸が忍び寄っているのです。落胆の沼に陥り、絶望の城に捕虜《とりこ》になったかと思うと、いつの間にやら、また享楽の都を通る旅人になっているのです。いたずらに悲観することも、無駄《むだ》なことですが、楽観することも慎まねばなりません。油断と無理とはいつの時代でも禁物です。
 なんでもない、つまらぬことに悲観して、もう、身のおきどころがないなどと、世をはかなみ[#「はかなみ」に傍点]、命を捨てることは、ほんとうにもったいない話です。行き詰まって、絶体絶命の時こそ「ちょっと待て[#「ちょっと待て」は太字]!」です。「|立ち止まって視よ《ウエイト・アンド・シイ》」です。すべからく目を翻《ひるがえ》してみることです。思いかえすこと、見直すことです。心を転ずることです。「転心の一句」こそ、行詰まりの打開策です。「裸にて生まれてきたになに不足」の一句によって、安田|宝丹《ほうたん》翁は、更生したといわれています。事業に失敗したあげ句の果て、もう死のうとまで決心した彼は、この一句によって復活しました。そしてとうとう後の宝丹翁とまでなったと聞いています。「転[#「転」は太字]」の一字[#「の一字」は太字]こそ、まさしく更生の鍵《かぎ》です。禍を転じて福となす(転禍為福《てんかいふく》)といわれているように、私どもはこのたびの敗戦を契機として、ぜひともこの「転」の一字を十分に噛《か》みしめ、味わい、再建日本のための貴い資糧とせねばならぬと存じます。
 ところで人生を旅路と考え、弥次郎兵衛、喜多八の膝栗毛を思い、東海道五十三次の昔の旅[#「五十三次の昔の旅」は太字]を偲《しの》ぶとき、私どもは、ここにあの善財童子の求道譚《くどうものがたり》を思い起こすのです。善財童子は文殊菩薩《もんじゅぼさつ》の指南によって、南方はるかに五十三の善智識を尋ね、ついに法界に証入して、まさしく悟れる仏陀《ほとけ》になったのですが、この物語は、かの『華厳経《けごんきょう》』(第一講をみよ)のほとんど大半を占めている有名な話です。人生の旅路を、菩薩の修業に託して説いてくれた古《いにし》えの聖者の心持が、尊くありがたく感ぜられるのです。おそらく、東海道の宿場を五十三の数に分けたことは、この善財童子の求道譚に、ヒントを得たものと存じます。
「林を出《いで》て還《かえ》ってまた林中に入る。便《すなわ》ち是れ娑羅仏廟《さらぶつびょう》の東、獅子《しし》吼《ほ》ゆる時|芳草《ほうそう》緑《みどり》、象王|廻《めぐ》る処《ところ》落花|紅《くれない》なりし」
 と仏国禅師《ぶっこくぜんじ》は、善財の求道の旅[#「求道の旅」は太字]を讃嘆《さんたん》しておりますが、いうまでもなく、獅子とは、文殊菩薩のこと、象王とは普賢菩薩のことです。文殊と普賢[#「文殊と普賢」に傍点]の二人によって、まさしく青年善財は、ついに悟りの世界に到達したのです。私どもはバンヤンの『天路歴程《てんろれきてい》』や、ダンテの『神曲』に比して、優《まさ》るとも決して劣らぬ感銘を、この求道物語からうけるのです。私どもは善財童子のように、人生の旅路を、一歩一歩真面目に、真剣に、後悔のないように歩いてゆきたいものであります。
 さて前置きがたいへん長くなりましたが、これからお話しするところは、
「故に知る。般若波羅蜜多《はんにゃはらみた》は、是れ大|神呪《じんしゅ》なり。是れ大|明呪《みょうしゅ》なり。是れ無上呪《むじょうしゅ》なり。是れ無等等呪《むとうどうしゅ》なり。能《よ》く一切の苦を除く、真実にして虚《むなし》からず」
 という一節であります。
 不思議な呪[#「不思議な呪」は太字] ところで、ここで問題になるのは「呪」ということです。呪とは口偏に兄という字ですが、普通にこの呪という字は「のろい」とか、「のろう」とかいうふうに読まれています。で、「呪」といえば世間では、「のろってやる」とか「うらんでやる」という、たいへん物騒な場合に用いる語《ことば》のように考えられています。しかしまたこれと同時に、この呪という字は「呪文《じゅもん》を唱える」とか「呪禁《まじない》をする」とかいったように、「まじない」というふうにも解釈されているのです。毎日、新聞の社会記事に目を通しますと、呪禁《まじない》をやって、とんでもない事をしでかす人の多いことに私どもは呆《あき》れるというよりも、むしろ悲しく思うことがあります。怪しげな呪禁《まじない》や祈祷《いのり》をして、助かる病人まで殺してみたり、医者の薬を遠ざけて、ますます病気を悪くしてみたり、盛んに迷信や邪信を鼓吹して、愚夫愚婦を惑わしている、いいかげんな呪術師《まじないし》がありますが、ほんとうにこれは羊頭を掲げて狗肉《くにく》を売るもので、あくまでそれは宗教の名において排撃せねばなりません。世間には「真言秘密の法」などと看板を掲げて、やたらに怪しげな修法《しゅほう》をやっているものもありますが、真言の祈祷はそんな浅薄な迷信を煽《あお》る
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