ト》を、道案内として、病気の診察、医薬《くすり》の調合をするのです。ちょうどそれと同様に、教育や宗教の先生は、古今の聖賢が、身体で書かれた聖典を、十分に心でよみ、身で読んで「人格」を磨き、その磨いた人格によって、他人の心の病を治療するのです。しかしこの場合です。「あんな藪《やぶ》医者では」ナンテ、頭から医者を信用しなければ、どれだけ名医《せんせい》が親切に治療してくれてもだめです。「こんな薬が利くものか」と疑っていては、どんな名薬でもなんの効果《ききめ》もないわけです。医者を信じ、薬の効能を信じてこそ、はじめてききめがあるのです。心病の治療を志すものもそれと同様です。まず信ずること、すなわち信仰が第一であるわけですが、しかし病人にだけ信仰を強《し》いて、肝腎の医者その人に信仰がなくてはだめです。自分《おのれ》に信仰がなくて、人にのみ信仰をすすめても、それは無理な話です。だから、たとい身の病を癒す先生でも、単に医学を学んだだけでは、まだほんとうの医者といえません。大学を出たての医学士なんか、恐ろしくて診《み》てもらう気がしません。医学を学び、そして、その医学を行ずる医者、すなわち、医術を体得した医者こそ、はじめてたよりになるのです。臨床家でない医学博士は、医者にして医者にあらずです。実際を知らないから飛んでもない誤診をやったり、治療の仕ぞこないをしでかすのです。しかし、ほんとうのことをいえば、医術だけの医者は、まだ真の医者とはいえません。医術の大家は、必ず医道の体験者でなければなりません。医師の大家を国手というのは、おそらくこの医道の体得者を意味するのでしょう。少なくとも天下の医師は、国手をもって自ら任じてほしいものです。古来「医は仁術」というのがそれです。医術の極意は、結局、仁です。慈悲です。宗教的愛です。見の眼では、ほんとうに病気が診察できないように、天下の医者たるものは、すべからく観の眼、心の目を養わねばなりません。そして医学より医術へ、さらに、医術より医道へのコースを辿《たど》ってほしいと思います。金|儲《もう》けのために医術をやることも、あえて反対するものではありませんが、せめて世を救い、人を救うために、進んで医道をも学んでもらいたいものです。単に生活《くらし》のための開業ではなくて、医道を歩むことを、そのまま自分の生活のモットーにしてほしいものです。古来、仏陀《ほとけ》のことを「医王」と申しておりますが、「満天下の|医師[#「満天下の|医師」は太字]《せんせい》たちよ[#「たちよ」は太字]。すみやかに|医王[#「すみやかに|医王」は太字]《ほとけ》となれ[#「となれ」は太字]!」と、私は叫びたい衝動に駆られています。
心の病気の治療法[#「心の病気の治療法」は太字] さて病気をなおす[#「なおす」に傍点]には、医者[#「医者」に傍点]と薬[#「薬」に傍点]と養生[#「養生」に傍点]の三つが、大切だといわれていますが、心の病気を治療するにも、やはりこの三つが必要です。医者とはりっぱな人格者です。教育家や宗教家は、ぜひとも、この「人格《ひとがら》」を、目的《めあて》とせねばなりません。次に薬とは信仰です。養生とは修養です。「病は気から」ともいうように、私どもは健康《たっしゃ》な精神《こころ》によって、身体の病気を克服してゆかねばなりません。だから、医者と薬と養生の三つのなかで、いちばん必要なものは養生です。養生といえば、この養生と関聯《かんれん》して想《おも》い起こすことは、あの化粧ということです。化粧とは「化ける粧《よそお》い」ですが、婦人の方なんか、化粧せぬ前と後とでは、スッカリ見違えるように変わります。お婆《ばあ》さんになってもそうですが、若い娘さんなんか特に目立ちます。しかしおなじ紅白粉《べにおしろい》をつかっても、上手《じょうず》と下手《へた》とでは、たいへん違います。あまり濃く紅をつけたり、顔一面に厚く白粉を塗ったがために、せっかくの素地《きじ》がかくれて、まるでお化けのように見えることがあります。自分の肌《はだ》の素地や、色艶《いろつや》を省みずに、化粧してはキット失敗すると思います。しかし私はなにも美容の先生ではありませんから、専門のことはわかりませんが、素人《しろうと》目にもわかるのは、「厚化粧の悲哀[#「厚化粧の悲哀」は太字]」です。「妾《わたし》は化粧しておりますよ、みてください」とばかりに塗っているのは、おそらく化粧の上手とはいえないでしょう。化粧しているのやら、していないのやら、ちょっとわからないのが、いわゆる「化粧の|秘訣[#「化粧の|秘訣」は太字]《ひけつ》」かと存じます。もちろんこうしたことは、それこそ「よけいなお世話」で、男子の私よりも婦人の方が、くわしいことですが、しかし「他山の石、もってわが玉を磨《みが》くべし」だと思います。
こころの化粧[#「こころの化粧」は太字] ところで、ここでぜひとも申し上げておきたいことは、こころの化粧[#「化粧」に傍点]です。顔や肌の化粧ではなくて、心のなかの化粧であります。むずかしくいえば、精神の修養です。心の養生です。すでに申し上げた、あの心の掃除《そうじ》です。いったい化粧の目的は、顔を美しく綺麗《きれい》に見せるためではなくて、顔や肌の手入れです。掃除です。化ける粧いではなくて、清潔にさっぱりと綺麗に掃除しておくことです。だから、化粧の必要は、婦人でも男子でも同様です。爪《つめ》や頭髪に汚《きたな》い垢《あか》を溜《た》めておいて、何が化粧でしょう? 紅、白粉や、香水などは、ほんのつけたりでよいのです。必ずしもその必要はないのです、にもかかわらず、今日ではそれをいかにも化粧の第一条件にしております。主客|顛倒《てんとう》もはなはだしいといわざるを得ないのです。しかしそれならばまだしも、身の化粧だけはキチンとしておきながら、いっこう、心の化粧をしない人が多いようです。いや、全然問題にしていない人が少なくないのです。昭憲皇太后さまの御歌に、
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髪かたちつくろうたびにまず思えおのが心のすがたいかにと
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というのがあります。鏡に向かって化粧する。その時、顔や容姿《かたち》の化粧《たしなみ》をするたびに、必ず心の化粧もしてほしいのです。真の化粧とは、心の化粧です。顔や肌の素地《きじ》は天性《うまれつき》だから、どんなに磨いたところで、しれていますが、しかし心の化粧は、すればするほど美しくなるのです。老若男女を選ばず、磨けばみがくほど、いよいよその光沢《つや》が出てきます。「金剛石《こんごうせき》も磨かずば」で、実をいうと私どもは互いにその金剛石《ダイヤモンド》を一つずつ所有しているのです。しかし肝腎の私たちはそれを知らないでいるのです。だから化粧はおろか、その存在すら忘れているのですから、光るに光れないわけで、まことにもったいないわけです。
心は鏡[#「心は鏡」は太字] その昔、支那《しな》に神秀《じんしゅう》という有名な坊さんがありました。彼は禅のさとりについて、こういっています。
「身は是れ菩提樹《ぼだいじゅ》、心は明鏡台《めいけいだい》の如し。時々に勤めて払拭《ほっしき》せよ。塵埃《じんあい》を惹《ひ》かしむること勿《なか》れ」
私どもの身体は、ちょうど、一本の菩提《さとり》の樹《き》だ。心は清く澄んだ鏡である。しかし塵埃《あか》が溜《たま》る[#「溜《たま》る」は底本では「溜《たま》まる」]から、始終いつもそれを綺麗に掃除しておかねばならない、ということばは、たいへん意味ふかいものです。かの愚者といわれた周利槃特が、「塵を払え、垢を除け」という詞《ことば》を、単に外面的に皮相的に考えずして、内面的にもっと深く思索して、ついにさとり[#「さとり」に傍点]を開いたように、私どもは「化粧と修養」のほんとうの意味を、内面的に思索し、生活によって把握《はあく》する必要があると存じます。
話はつい横道へそれましたが、かの「菩薩《ぼさつ》の疾《やま》いは大悲より発《おこ》る」という『維摩経《ゆいまぎょう》』の文句は、非常に考えさせられることばだと思います。どなたかの歌に、
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立ちならぶ仏の像《すがた》いま見ればみな苦しみに耐えしみすがた
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というのがあります。ほんとうに味わうべき歌です。一切の衆生《ひとびと》の苦しみを救いたいという抜苦のこころ[#「抜苦のこころ」は太字]、一切の衆生にほんとうの楽しみを与えたい、という与楽の気持、そうした慈悲の心の上に、仏や菩薩の絶えざる悩みはあるのです。だが、その悩みこそ、自分《おのれ》の身の病でもなければ、また自分一個の心の病でもありません。みんなそれは他人のための病です。苦しみです。つまり世のため、人のための悩みであり、愁《うれ》いであります。
わが子の病気[#「わが子の病気」は太字] 自分の子供が病気に罹《かか》る。親の心は心配です。わが身の病気よりも、いっそう心がいたみます。子供の病気は[#「子供の病気は」に傍点]、そのまま親の病気[#「そのまま親の病気」に傍点]です。それと同時に、子供の全快はそのまま親の全快です。親と子とは、悲しみを通じて、欣《よろこ》びを通して、少なくとも二にして一です。子をもって欣ぶのも親心なれば、また子をもって悲しむのも親心です。
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もたずしてあらまほしきは子なりけりもたまほしきもまた子なりけり
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と詩人はいってくれています。かわいい子供の笑顔をジッと見ていると、ようまあ子供をもったものだと思います。だがしかし、罪のない悪戯《いたずら》ならまだしも、突然、病気にでも罹って苦しむわが子のすがたをみると、ああ、子供なんかない方がよかった、などという愚痴も出ます。もたない人はもちたがり[#「もたない人はもちたがり」は太字]、もつ人はまた子供で苦労する[#「もつ人はまた子供で苦労する」は太字]。まことに「人間に子のあることの寒さかな」で、とかく人間は勝手なことを考えるものです。
仏のなやみは利他的悩み[#「仏のなやみは利他的悩み」は太字] おもうに少なくとも、さとれる[#「さとれる」に傍点]仏陀《ほとけ》となれば、もちろん自分のための利己的な悩みはないでしょう。しかし、わが身のための苦しみはなくとも、世のための悩み、他人のための苦しみはキッとあるのです。といって、その悩み、その苦しみは、決して私どもの考えているような、苦しみでもなく、また悩みでもありません。その苦しみこそ楽しみ[#「苦しみこそ楽しみ」は太字]です。その悩みこそ悦《よろこ》びです。
「世に恋の苦しみほど、苦しいものはない。だが、その苦しみほど、楽しいものはない」
と、ゲーテもいっています。譬喩《たとえ》としては、はなはだ不似合いなたとえでしょうが、私どもは、そこに迷情を通じて、かえって、仏心の真実を味わうことができるのです。
般若の智慧を磨け[#「般若の智慧を磨け」は太字] 要するに、この『心経』の一節は、三世の諸仏も、皆この般若の智慧によって、まさしく、ほんとうの正覚《さとり》を得られたのである。だから私どももまた般若の智慧を磨くことによって、みな共に仏道を感じ、真の菩提《さとり》の世界へ行かねばうそだ、ということをいったものであります。
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第十一講 真実にして虚《むなし》からず
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故[#(ニ)]知[#(ル)]般若波羅蜜多[#(ハ)]。
是[#(レ)]大神呪[#(ナリ)]。
是[#(レ)]大明呪[#(ナリ)]。
是[#(レ)]無上呪[#(ナリ)]。
是[#(レ)]無等等呪[#(ナリ)]。
能[#(ク)]除[#(ク)][#二]一切[#(ノ)]苦[#(ヲ)][#一]。
真実[#(ニシテ)]不[#レ]虚[#(カラ)]。
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空間の一生[#「空
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