方[#「三世十方」は太字]とは、「無限の時間」と「無限の空間」ということです。元来仏教は、キリスト教のごとく、神は一つだという一神論[#「一神論」に傍点]に立っている宗教ではなくて、無量無数の仏陀《ぶっだ》の存在を主張する、汎神《はんしん》論に立脚しているのです。したがって仏教ではこの無限の時間、無限の空間に亙《わた》って、いつ、いかなる場所にでも、数限りない無量の仏がいられるというのですから、衆生《しゅじょう》の数が無限だとすると、仏の数もまた無限です。
 衆生のある所必ず仏はいます、というのですから、衆生の数と、仏の数とはイクォールだといわねばなりません。すなわち「すでになった仏」「現になりつつある仏」「いまだ成らざる仏」というわけで、その数は全く無量です。いったい日本において、古来神というのは、神はカミの義で、人の上にあるものが「神」です。すなわち人格のりっぱな人、勝《すぐ》れて尊い人が神さまであるわけです。またそのほか、ひと[#「ひと」に傍点]は万物の霊長で「日の友」だとか、人は地上において唯一の尊いものだから「ひとつ」の略であるとか、いろいろな解釈もありますが、古来男子をことごとく彦《ひこ》といいます。ひこ[#「ひこ」に傍点]とは日の子供です。これに対して、女子は姫といいます。ひめ[#「ひめ」に傍点]とは日の女です。だから、人は男女いずれも神になり得る資格があるのです。すなわち神の子であるわけです。賢愚、善悪、美醜を問わず、いずれも神の子であるという自覚をもって敬愛することが大事です。ただし自分が神の子であること、神になるりっぱな資格があることを、互いに反省し、自覚しなければ何もなりません。
 仏陀は自覚した人[#「仏陀は自覚した人」は太字] 仏教の教えも、ちょうど、それと同じです。一切の衆生《ひとびと》には、仏となる素質がある。(一切衆生悉有[#二]仏性[#一])いや「衆生本来仏なり」で、素質があるのみならず、皆仏であるのです。ただ仏であることを自覚しないがために、凡夫の生活をやっているわけです。浄土他力の教えでいえば、皆ことごとく阿弥陀《あみだ》さまによって救済されているのだ。お互いは一向行悪の凡夫だけれども、お念仏を唱えて、仏力を信じさえすれば、いや、信じさせていただけば、この世は菩薩《ぼさつ》の位、往生すればすぐに仏になるのだ、というのですから、その説明の方法においてこそ、多少異なっている点もありますが、いずれも、大乗仏教であるかぎり、その根本は一つだといわねばなりません。
 子をもって知る世界[#「子をもって知る世界」は太字] 「世を救う三世《みよ》の仏の心にもにたるは親のこころなりけり」とて、古人は仏の心を、親の心にくらべて説いております。まことに「子をもって知る親の恩」で、子供の親になってみると、しみじみ親の心が理解されます。だが、子に対する親の限りない愛情は、独《ひと》り人間にのみ局《かぎ》っていないのです。あのツルゲネーフの書いた「勇敢なる小雀《こすずめ》」という短篇があります。そのなかにこんな涙ぐましい話が書いてあります。
 勇敢なる雀[#「勇敢なる雀」は太字] ツルゲネーフが、猟からの帰り途《みち》を歩いていると、突然、つれていた猟犬が、何を見つけたか、一目散に駈《か》け出して、森の中へ入って行きました。まるで犬は獲物を嗅《か》ぎつけた時のように、蹲《うずく》まりながら足を留めて、いかにも要慎《ようじん》深く、忍んで進みました。ツルゲネーフは、不思議に思って、急いで近寄ってみると、道の上には、まだ嘴《くちばし》の黄色い、かわいい雀の子が、バタバタと小さい羽根を、羽ばたいているのです。おそらく、枝から風にゆられて、落ちてきたのでしょう。これを見つけた犬は、今にもその子雀を喞《くわ》えようとします。すると、にわかにどこからともなく親雀が飛んで来て、まるで小石でも投げるように、犬の口先きへ落ちてきたのです。この勢いに、さすがの犬もおどろいて、後へ退くと、雀はまた元のように飛び去りました。しかし、犬がまた喞えようとすると、再びまた飛びかかってくるのです。こうして母の雀は、幾度も幾度も必死になって、子雀をかばいましたが、しまいには、かわいそうに、もう飛び上る勇気もなくなって、とうとう恐ろしさと、驚きのために、子雀の上に折り重なって、死んでいったというのです。
 子雀に忍びよった、恐ろしい怪物を見つけた瞬間、親の雀は、すでに自分の命を忘れてしまったのです。そうして必死の覚悟をもって、勇敢にも怪物に抵抗して戦ったのです。しかも、なお死んでからも、子雀をとられまいとして、親の雀は、その子雀の上に、倒れたのです。生まれて間もなく実母に死に別れた私は、この物語を読んだ時には自然、涙がにじみ出ました。いまもこうして話していても胸がせまってくるのです。
 親への思慕は単なるセンチメント[#「親への思慕は単なるセンチメント」は太字] まことに「井戸のぞく子にありだけの母の声」です。親の愛は絶対です。今日の若い連中からは、あるいは頭の古いセンチメントだなんて笑われましょうが、親の情はほんとうにありがたいものです。その親の恩のわからぬ連中は人間の屑《くず》です。「親の恩歯がぬけてから噛みしめる」で、若い時分にはそれがハッキリわかりません。でも、だんだん齢《とし》をとり、自分が人の子の親になってみれば、誰《だれ》もそれがほんとうにわかってくるのです。科学的立場からいえば、親の流す涙も、恋人の流す涙も涙に変わりはないでしょう。分析すれば、水分と塩分とに還元せられるでしょう。しかし、涙には、甘い涙も、ありがたい涙もあるのです。悲しい涙もあれば嬉《うれ》しい涙もあるのです。それゆえ、私どもは、人生のことを、何もかも、すべて科学的な分析によって見てゆこうとすることは、無理だということを知らねばなりません。
 さて本文の、
「三世の諸仏も、般若波羅蜜多《はんにゃはらみた》に依るが故に」
 ということは、つまり般若は仏の母[#「般若は仏の母」は太字](仏母《ぶつも》)だ、といわれるように、諸仏を産み出す母胎が般若ですから、般若の智慧がなければ、仏とはいえないわけです。般若あっての仏なのです。『心経』の最初に「観自在菩薩《かんじざいぼさつ》、深《じん》般若波羅蜜多を行《ぎょう》ずる時、五|蘊《うん》は皆|空《くう》なりと照見して、一切の苦厄《くやく》を度したもう」といってありますが、慈悲の権化《ごんげ》である菩薩、仏の化身《けしん》である観音さまも、般若[#「般若」に傍点]の智慧を[#「智慧を」に傍点]、親しく磨《みが》いて、一切は空なりということを、体得せられたればこそ、衆生《ひとびと》のあらゆる苦悩《なやみ》を救うことができるのです。しかし、般若を智慧と解釈しておりますが、たびたび申し上げるように、その智慧は、そのまま慈悲なのです。般若の智慧は、一度他に向かう時、それはすぐに慈悲[#「慈悲」に傍点]となって表われるのです。次に、
「阿耨多羅《あのくたら》三|藐《みゃく》三|菩提《ぼだい》を得たもう」
 ということですが、この語は、梵語《サンスクリット》の音をそのままに写したもので、原語でいえば「アヌッタラ、サミャク、サンボーディン」というのであります。すなわち阿耨多羅《アヌッタラ》とは無上[#「無上」に傍点]という意味で、これ以上のものはないということです。次に三藐《サミャク》ということは、偽りない、正しいという意味です。それから三菩提《サンボーディン》ということは、すべての智慧が集まっておるという意味で、※[#「蝙」の「虫」に代えて「彳」、第3水準1−84−34]《あまね》く知る、またはひとしく覚《さと》る、という意味で、「※[#「蝙」の「虫」に代えて「彳」、第3水準1−84−34]智《へんち》」もしくは「等覚」というふうに訳されています。菩提はすなわち、覚証《さとり》の世界です。で、つまり「阿耨多羅《あのくたら》三|藐《みゃく》三|菩提《ぼだい》」とは、訳していえば「無上正※[#「蝙」の「虫」に代えて「彳」、第3水準1−84−34]知《むじょうしょうへんち》」または「|無上正等覚[#「無上正等覚」は太字]《むじょうしょうとうがく》」というべきであります。換言すれは、「この上もない真実なさとり[#「さとり」に傍点]」という意味が、阿耨多羅三藐三菩提[#「阿耨多羅三藐三菩提」は太字]ということです。あの比叡山《ひえいざん》をお開きになった伝教《でんぎょう》大師は、

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あのくたらさんみゃく(さみゃく)さんぼだい(さんぼじ)の仏たち
わが立つ杣《そま》に冥加《みょうが》あらせたまえ
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 と詠んでいられますが、「あのくたらさんみゃくさんぼだいの仏たち」というのは、ただ今申し上げましたように、無上正等覚を得たまえる仏たちよ、すなわち、ほんとうの悟りを得たまえるみ仏たちよ、という意味です。
 いつか、ある所へ講演に参りました時、私はある人から、
「いったい、仏さまには、楽しみばかりで、苦しみは少しもないものでしょうか」
 と問われたことがあります。その時、私はこう答えました。
「仏さまだとて、苦しみもあり、また楽しみもありましょう」
 といったところ、その人はいかにもけげんな顔をして、
「いったん仏様となれば、楽しみばかりで、苦しみはないと思っていましたが」
 といわれたのです。そこで私は次のように答えました。
 大悲の疾い[#「大悲の疾い」は太字] あの名高い『維摩経《ゆいまぎょう》』というお経には、「衆生の疾《やま》いは煩悩《ぼんのう》より発《おこ》り、菩薩の疾いは大悲より発《おこ》る」という言葉がありますが、いったい私ども人間には身体の疾いもあれば、こころの疾いもあります。身病と心病[#「身病と心病」に傍点]です。ところで、身体の病に、外科と内科があるように、心の病にもまた外科もあり、内科もありましょう。

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身から出た錆《さび》で衣が赤くなり
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 というのは外科的な病気です。しかし、内面的な心の病気は、まだそこまでゆかないのです。まだお巡《まわ》りさんや、刑務所のごやっかいにならずともよいのです。宗教家や教育家の力でどうともする事ができるのです。
 身の病と心の病[#「身の病と心の病」は太字] いったい人間というものは、たいへん身勝手なもので、身体の病気はたいへん気にいたしますが、心の病気はあまり気にしないのです。たしか『孟子《もうし》』だったと思いますが、こんなことが出ています。
「自分の指が、五本のうちで、一本でも曲がって自由が利《き》かないと、誰でもすぐに千里の道を遠しとせずして、治療に出かける。しかし、かりに心が曲がっていても、いっこうそれを治療しようとしない」
 たしかにそれは至言だと存じます。他人に注意する場合でも、「顔に墨がついていますよ」といえば、ありがとうとお礼をいわれます。「羽織の襟《えり》が」といって、ちょっと知らしてあげても、「ご親切に」と感謝されます。しかし、もしも、「あなたの心が曲がっている」とか、「心に墨がついていますよ」などと注意しようものなら、「よけいなお世話だ」ナンテかえって恨まれます。なんでもない顔の垢《あか》や、着物の襟などを注意すると喜ぶくせに、肝腎《かんじん》の心の病気を注意すると怒《おこ》られるとは、全く人間というものは、ほんとうに変な存在《もの》です。ところで、身体の病気を治療するには、外科、内科のいずれを問わず、医者が必要のように、精神《こころ》の病気を療《いや》すにも、やはり医者《せんせい》を要します。いずれも「先生」という医者が必要です。教育家と宗教家と、それがその先生です。それから、身の病を治療するには、むろん、その先生の技術も大事ですが、その根本のよりどころとなるものは、医学の書物です。すなわち古今のドクトルが、生命《いのち》を的に研究し調査した、その報告書《アルバイ
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